■人生を切り開く極意

こんばんは、行動強化コンサルタントの石田久二です。
願望実現の究極奥義は、結局、「質問」だと言うことは何度も繰り返し述べてきました。自分に対する「適切な質問」さえ繰り返せば、その「答え」は自ずと得られるし、それがすなわち「実現」へと直結します。ただし、くせ者なのは「質問」と「答え」の間にいくらかのタイムラグあること。漫画「一休さん」はアイデアを出す際、頭に唾をつけて座禅を組んでまもなくひらめくのですが、実際はそんなに早くはないです。
あるときの質問の答えが一年後に出ることだってあります。そのときには質問したことさえ覚えてないことがほとんどですが、そんなとき、あたかも天から勝手に降りてきたかのように思ってしまう。だけど、ほとんどの場合、それは事前に質問した答えだったりするわけです。
つまり、再三に渡って繰り返しますが、「適切な質問」こそが人生を開くのです。例えば私はほとんど無一文から独立し、最初の4ヶ月は完全に無収入でしたが、5ヶ月目か何とか収入が入り始め、綱渡りをしながらも7年が経ちました。そのときにずっとしていた質問がこれ。
「どうすれば、フリーランスで食べていけるだろうか?」
もしここで、
「なぜ、フリーランスで食べていけないのだろうか?」
と質問していたら確実に今はないでしょう。その当時、本当に偶然の計らいである物販を始め、それがある程度の生活資金になっていたのですが、この先もずっとそれをするイメージがありませんでした。そこで、同じようにまた質問するのです。
「どうすれば、新しい仕事を始められるだろうか?」
などと。すると質問してから一年以上かかりましたが、「セミナー」という答えがやってきて、そして今に至ります。この「質問→答え」の流れは脳のメカニズムそのものです。脳は「空白」を嫌います。以前、韓国ドラマを見ていたとき、一話の終わりになると、必ず次の話が見たくなる仕掛けになっていました。それで夜を徹してしまった人も少なくないでしょう。それもまた、「次はどうなるんだ?」という脳の空白を利用した方法。通常、「引き」と言ったりしますが、人を引きつける上での基本中の基本です。
上手な販促文もすべてそうなっています。脳の「空白」を作って、買いたくさせる仕組みです。上手なプレゼンテーションも同様、最初に聞き手に対して疑問を投げかけます。例えば私のセミナーなどでも、
「私の友達にめっちゃブサイクな男がいて、会話もさほど上手じゃないし、お金もない。だけど、なぜかどこ行ってもモテて、女子高生の彼女までいるんですよ。だけど、彼と接しててわかりました。なぜ、彼がそんなにモテるのかを」
と最初にふると、聞き手はまず眠ることはありません。最後まで。疑問や質問によって脳に「空白」ができると、それを埋めるまでは落ち着かないし、眠れないのです。
しかし、韓国ドラマならば次を見れば埋まります。販促文なら商品を買えば埋まります。セミナーの前振りなら最後まで聞いていればだいたいわかるでしょう。しかし、人生に関する質問はすぐには答えが用意されていません。だけど、安易に用意されないことだからこそ、脳がフル回転でその答えを検索し始めるのです。そして時間はかかっても、必ずその答えが出るようになっています。もう一度言いますが、これは脳のメカニズムです。
ですので、どんな難しい問題であっても、絶対に質問をやめないこと。仕事、恋愛、結婚、人間関係、収入、借金、健康など、あらゆる問題に対応できるのが、この「質問」です。ただし、次の二つだけはこれが通用しません。さて何でしょう。こうやって「空白」を作りますが、答えはしばらくしてコメント欄に書いておこうと思います。
いずれにせよ、人生を切り開くのは「質問」でしかありません。適切な質問の習慣が身につけば、人生はある程度思いの通りになります。


カテゴリー: |―潜在意識の活用法 | 2件のコメント

【書評】「官能小説の奥義」永田守弘著

控え目に告白するが、私は「官能小説」が嫌いでない。高校時代は寮生活をしていたが、男性誌として一般的だったのは、もっぱら企画ものの写真雑誌及び男性漫画雑誌であった(「男性」と言ってもサブ系ではない)。各部屋には必ず数冊あったものだが、私のロッカーに入っていたのはほとんどが官能小説であった。ただ、私自身、特に活字が好きだったわけじゃなく、実のところ高校を卒業するまで活字らしい活字はほとんど読んだことがない。例外的にはクラシック音楽に関する解説本があったくらいで、読む本はほとんどがマンガであった。もちろん写真系の男性誌も目にすることは多かったが、それ以上に官能小説を愛読していた。そしてあえて言わないでおくが、特に好きな作家もいた。好きなジャンルもあった。
しかし、当時の同級生の中には私のように「官能小説が好き」と言う人間はいなかった。いや、私も言ってなかった。となると、私のように好きだけど言わないでいた同級生も必ずいたはずだ。正直、寮生活をしていると、全員が全員ではないが、男性誌を読むこと、所持することにさしたる抵抗はない。借りることも貸すこともそうで、しばしば他の部屋の人間が「エ○本貸してくれへ~ん」と訪れることもあった。そう言いながら、勝手に机の引き出しを開けて持って行く人間もいた。しかし、「エ○小(官能小説のこと)貸してくれへ~ん」と言って入ってくる人間はいなかった。
ある時期、私の部屋には変な奴が集まっていた。坂本と倉橋という同級生などは、自分たちで官能テープ(「マド○ナメ○ト」を代表としたAV女優による吹き込みテープのこと)を自作して楽しむほどの変な性癖を持っていた。ちなみに倉橋が女役である。それがある日、私の持つ官能小説が彼らに見つかってしまった。その二人はなぜか嬉しそうに、その小説のタイトルを読み上げ、私を揶揄するのである。よりによってその二人からである。通常の男性雑誌ではそうはならない。官能小説だから、である。しかし、同じ部屋の中山はその小説をそっと取り、勉学時間に読み耽っていた。
その一連の扱われ方に、官能小説ならでは奇異性があると感じていた。なぜに、官能小説は秘められる存在なのか。ちなみに昨今、kindleやipadの登場により電子書籍が話題となっているが、実はそれ以前からずっと電子書籍で堅い市場を持つジャンルがあった。言うまでもなく官能小説である。そして通常、紙の本よりも電子書籍は安いはずなのだが、官能小説はなんと電子書籍の方が高い。それだけ電子のニーズがあると言うことは、やはり持っている、読んでいるのを知れたくないからなのか。ただ、その一方で駅のキオスクなどには堂々と売られている。ずっと昔からそうだ。あれは一体誰がいつ買うものなのか。そしてどこで読むのか。
私はキオスクでは買ったことがないし、私のない知恵から推測すれば、きっとこうであろう。人は誰もが官能小説に対する隠れたニーズを持っている。しかし、買うのはなんか恥ずかしい。コンビニで中学生が「ふたりえっち」をいそいそとレジに持って行く並に恥ずかしい。もしコンビニや書店で後ろに並ばれたりしたら、相対性理論でその時間はいつもの10倍は長く感じるだろう。しかし、キオスクは基本的に並ばない。熟練した店員だと客が品物を見せると同時にお釣りを差し出すほどのスピードだそうだ。キオスクにはコンビニと違って電子レンジもないため待つこともない。しかも最大の利点は、定員はほとんどがオバチャンであり、バイトの女子大生が入っていることなどほとんどない。しかもラッシュ時などの客はほとんどが男である。これほど官能小説を買うのに適した環境はないのではないか。なぜ、キオスクには官能小説が必ず売られているのか。それは単に「買いやすい」からであろう。読むのは駅や車内である必要もない。「買う」ためにキオスクに置かれてるのである。
それはともかく、本書の書評に入りたい。正直、ものすごくよくまとまっている。「官能小説の文体の歴史」「性器描写の工夫」「性行描写の方法」「フェティシズムの分類」「ストーリー展開の技術」など数ある官能小説をそれぞれに要素から分類、分解し、分析、解説を加えている。もちろん文章の引用も併せて。
しかしこのように並べてみると、官能小説の表現とはなんと多彩なことか。優れた作家の手に掛かると、同じ対象であっても二つとして同じ表現がない。それでいて読者に考えさせず、ストレートに状況を想起させるのである。その表現をそのまま紹介したいとろだが、かなりドギツイので、あえて単語の優しい文章を引用したい。
「内部の景色は、夕暮れの淡水湖を思わせる。肉襞の盛り上がりもあまりなく、縦長のハートを形作ったそこは、すっきりとした潔いたたずまいであった」
いや、これでもかなりドギツイ。単語の一つ一つを見ると、「肉壁」だけがちょっと引っかかる程度で、それ以外は何一つ言いにくい言葉はない。しかし、それらを並べるだけで、かくも淫靡になろうものか。ここに文脈が入ると、私の目の前には完全に3D動画が広がってしまうではないか。
官能小説の作家たちの表現力は底なしである。ただ、よくよく考えると、日本の古典文学の最高傑作の一つである「源氏物語」などは、実際は完全なる官能小説である。また、現在日本で最もノーベル文学賞に近いと言われる村上春樹なども、ときとして意味不明なまでに官能的な描写が登場する。人間の三大欲求である食欲、睡眠欲、性欲のうち、最も動的な欲は性欲である。寝たくなるような表現は必要ない。食べたくなる表現は空腹時にはたまらないが満腹時は辟易する。しかし、やりたくなる表現は満たされた直後であっても、表現次第で瞬く間に復活させる力がある。つまり文学表現の真価とは、官能表現にありきと言ってもいいのではないか。
本書の巻末には「官能小説の書き方十箇条」なる章があるが、これが圧巻である。特に「第七条 恥ずかしいと思うな」では羞恥心を一切捨てて一つの表現・描写にぶつけろと指南する。そして何より「第十条 書いてる途中でオ○ニーするな」は思わず笑ってしまったがその通りである。プロの作家でも書きながら興奮することがあるらしい。そもそも自分が興奮せずして読者を興奮させることはできない。そこでいきおい、思わずベルトに手をかけてしまえば、それまでの興奮はやみ、そのまま文章にも反映されてしまうそうだ。途端に力のない萎れたストーリー展開となってしまう。
昨今、ブログやSNSなど個人が文章を発信する機会が増えてきた。もちろん発信する内容が第一ではあるが、表現方法が拙いばかりに、せっかくの内容が伝わらないことだってあるだろう。逆に内容は大したことないのだが、思わず読んでしまう文章にであることもある。いずれにせよ文章表現を磨くことは、読ませる文章を書く上で不可欠である。そのような文章に必ずあるのは、文そのものの色気である。この色気は、人間の性に無関係とは必ずしも言えない。もちろん誰もかれにも勃起させる文章を書くことは求められないが、色気ある文章を書く上で、そのような基礎体力は必要ではないかと思う。思えばここ数年、官能小説をまともに読んでいない。自分の文章を匂い立たせるために、再び官能小説にハマってかと思う年頃である。
官能小説の奥義 (集英社新書)/永田 守弘

¥720
Amazon.co.jp



人生を変える100日ブログ:74日目


カテゴリー: |―恋愛・性 | 【書評】「官能小説の奥義」永田守弘著 はコメントを受け付けていません

■早起きの秘訣

こんばんは、行動強化コンサルタントの石田久二です。


写経を始めて今日で13枚目になりました。般若心経を一巻写経するのに40分ほどかかります。そして一日一日、確実に字は上手になっているようです。正直なところ、早朝の静かな時間に写経をするのが楽しみでなりません。最近は10時に寝たときは4時に、11時に寝たときは5時に起きるようにしていますが、たいてい目覚まし前に起きて顔を洗い、自室に入って般若心経を一巻唱えます。それから写経に入ります。


近頃は本当に早起きが苦じゃなくなっています。正直なところ、早起きに気合いは必要ないと思います。なぜなら、起きるのが楽しみだから。写経をして、それが終わったら熱いコーヒー飲みながら本を読んだりブログを書いたり。家族も寝てるし電話もかかってこない。完全に一人の至福の時間です。はっきり言って、この時間に寝てるのは人生の半分は損しています。


それでも習慣にならないと早起きがなかなかできないのもわかります。どうすれば早起きできるようになるか。それは、起きた瞬間にとびきり楽しみなことを置けばいいですよね。ちなみに月曜日はウェブ上で「キン肉マン」が更新されるのですが、0時に更新されるところ、そこまで起きてられないので朝になって読むようにしています。そのときの目覚めのいいこと。


さすがに「キン肉マン」は私くらいと思いますが(このブログを読んでいる人にとっては)、とにかく何だっていいのです。朝起きたら、とびきり美味しいコーヒーとチョコレートで目を覚ますのもよし、好きなDVDを見るもよし、散歩もよし、瞑想もよし、とにかく最高の楽しみを朝に持ってくるのです。すると、本当の目覚めがいいです。


私の知人には早朝に仕事をしている人もいますが、その人たちは仕事がとびきり楽しいみたいです。私も最近はコーチングのセッションは早朝でお願いしています。朝からポジティブな話をするのは、正直、コーチとしての役得かもしれません。


もう一度言います。早朝の時間に寝ているようなのは、人生の半分は損していますよ。その時間にとびきり楽しいことしちゃいましょう。


カテゴリー: |―潜在意識の性質 | ■早起きの秘訣 はコメントを受け付けていません

【書評】「祈りの力 願望実現へのアプローチ」中村雅彦著

プロの「拝み屋」による願望実現の手引書。「祈り」によっていかにして願望を実現するべきか。細かい理屈はともかく、祈って祈って祈り倒すこと。それにより願いは叶う。しかし、それはときとして他人を貶めることにも使われる。その力のことを「呪詛」と言うが、プロの拝み屋への依頼の大半はその呪詛であるという。そしてなんと恐ろしいことに、呪詛には呪詛で対抗する力もあり、ときとして呪詛によるサイキック戦争が繰り広げられるのだとか、いやはや恐ろしい話である。そんなことが現実に行われているのだ。
著者はプロの拝み屋で様々な依頼を受け、実際に結果を出してきたからこそプロと名乗れるのだろう。願望実現にせよ呪詛にせよ、どの程度が実際の「祈り」によって効果があるのかは実のところはわからない。呪術中心の前近代社会ならともかく、今の時代に「祈り」の力がどの程度担保されるのか客観的になる必要はあるだろうが、それでも一定程度は、もしかしたら想像以上にそのような世界を信じている人が多いのかもしれない。
個人的な見解としては、「祈り」とはそれ自体に特別なエネルギーがあり、それにより効果があると見るのではなく、強い「祈り」が自ずと信念や行動に大きく作用し、その結果として願望実現したり、ときには誰かを呪い貶めることになるのであろうか。なるべくなら他人を呪う「呪詛」とは無関係でありたいと思うのだが、本書の中で特に気になったトピックがそう、「ネット呪詛」なる耳慣れぬ言葉についてである。
これは最近の傾向とのことであるが、今、「ネットカルト」が問題になっていると言う。インターネット上でプチ宗教・疑似宗教が作り上げられ、読者との関係において完全に「教祖と信者」という図式が形成されているそうだ。しかし、その教祖の言うこと、書くことはほとんどが支離滅裂、デタラメであるが、一度、その教祖に引き込まれたら内容の性格さや質など関係ない。教祖の言うことが絶対となるのだ。
そしてその教祖に対して批判的な言動を取ろうものなら、呪詛によりその攻撃されることもあると言う。さらに最近はネットの技術によりサイバー呪詛をかけることもあるそうだ。著者は具体的に何をさして「ネットカルト」と言っているのか言及はされていないが、いくつかのキーワードからおおよそ特定はできる。もちろんそれじゃない可能性はあるが、そうでなくても似たような話は確かにある。
なぜこのような支離滅裂なまでのネットカルトに人々は熱狂するのか。それはまず仏教や神道など伝統宗教への求心力が弱まったこと。1995年のオウム事件は新興宗教であるが、元は仏教・密教という伝統宗教からの派生である。伝統宗教は果たしてオウムに対する総括はしたのだろうか。おそらくしていまい。実のところ伝統宗教もオウムの被害者である。それこそ真言宗など伝統的なきちんとした仏教であるが、仏具を用いたり呪文を唱えたりするだけで「怪しい」と思われることが多々ある。そして求心力は失われるばかりで、かといってキリスト教やイスラム教も馴染みがない。その隙間を縫って出てきたのがスピリチュアルであり、さらにお手軽なネットカルトである。
読者は簡単にネットにアクセスするだけで、家に居ながらにして、無料で「立派な話」が読めてしまう。毎日同じ時間に更新されようものなら、神のご神託のように受け取ってしまう人もいるだろう。本来は各地域の伝統的な宗教・宗派が土地の祭りやコミュニケーションを通して、しっかりと教育しておくべきところ、もはや「宗教」というだけで毛嫌いされるようになった。しかし人々は宗教から完全に卒業したわけでもなく、相変わらず何かに救いを求めているのも事実。そこにネットカルトはフィットするのだろう。そして依存してしまう。ただそれだけのことだ。
本書については、もっと「ネットカルト」の問題に踏み込んで欲しいと思ったが、個人的に補足するなら、近づいてはならないネットカルトの特徴として
・匿名での配信
・スピリチュアルのみで完結
・伝統宗教と関わりがない
がある。匿名を避けるのはそこに責任性がないから。神秘性は教祖にとってかっこうのスパイスになるが、匿名でなければ言えない「真実のメッセージ」など存在しない。スピリチュアルのみで完結というのは、スピリチュアルオタクのみを相手にしており、一般企業や公的機関との関わりがないもの。まともなところから相手にされていない証拠である。同様に伝統宗教との関わらないどころか、批判し合っていたりすると、避けた方が無難であろう。筆者の言うとおり、ネットカルトは安易に依存させる性質があるが、批判したりすると呪詛攻撃を受ける可能性もあるので、ようは相手にしないのが一番だろう。え?私は大丈夫かって?もちろん大丈夫。なんなら呪詛返しも簡単。
それはさておき、本書の趣旨である願望実現についても少々触れよう。実は願望実現や自己啓発に詳しい人にとっては、さほど目新しい情報もない。何々の真言は何々の効果があるなどは、類書と似たりよったり。祈って祈って祈り倒して、あとはすっぱり忘れる。それもその通りだが、よく見聞きする話である。
個人的に「お!」と思ったのが夢(夜にみる)を用いた願望実現法。願望は潜在意識が叶える。夢は潜在意識のメッセージ。これはその通り。さほど意味のない夢もあるが、大いにある場合もある。そしてこれは秘法の一つであるが「見たい夢を見る」ことでその通りに願望を叶えることができる。これは実は、ある著名セラピストが「来世に一つだけ持って行きたい方法」としてほとんど外部に漏らさなかった方法。これを知るには全財産を差し出す必要があるとの噂もあった。だけど、それで全財産以上を取り返せるのなら安いものだ。その方法が簡単ではあるが、なんと本書で紹介されてあった。
全体としてインタビュー形式で進められていることからも、とても読みやすく、そして内容はそれなりに面白い。部分部分はもうちょっと踏み込んで欲しかったりするので、やや未消化感は否めないところであるが。
祈りの力―願望実現へのアプローチ/中村 雅彦

¥1,680
Amazon.co.jp



人生を変える100日ブログ:73日目


カテゴリー: |―願望実現・自己啓発 | 【書評】「祈りの力 願望実現へのアプローチ」中村雅彦著 はコメントを受け付けていません

■植物と一体となる呼吸法

こんにちは、石田久二です。


先ほど本を読んでいたら、その中に「瞑想することは植物に近づくこと」なる項目がありました。瞑想により深いところまで入っていくと、そこにはあらゆる「境目」がなくなり、すべては一つ、すべては宇宙だと体感することがあります。


それはもちろん人間同士でもそうだし、あらゆる動物とも一体であることを実感するのです。それをさらに進むとまさに「植物」との境目もなくなり、その本の通り、瞑想も進むと植物のようになるわけです。例が適切じゃないことを承知で言うと、脳死によりいわゆる「植物状態」にある人にとっては、この世は間違いなく「一つ」なのでしょう。実際、脳科学者のジル・ボルト・テイラー女史は脳卒中により左脳が損傷し、言語機能が低下していきました。しかし、その代わりにこの世界が「一つ」であることを確認したと言います。


実際、私たちは日常、よくもこれだけのおしゃべりをしているものだと感心します。起きている間はまず間違いなく、頭の中で何かをしゃべっています。その8割がネガティブなおしゃべりだったりするのですが、瞑想体験も深まると、このおしゃべりがどんどん静かになり、テイラー女史のごとく、この世の本当の姿を見ることになるでしょう。


では、おしゃべりを止めるにはどうすればいいのか。それこそが仏教であれ、キリスト教であれ、イスラム教であれ、あらゆる宗教体験の境地と言えるのですが、禅ではその練習として「数息観」を教えます。それは単に呼吸を数えながら瞑想するだけ。また、密教では梵字を目の前に貼り、それをただ見つめるだけの瞑想法もあります。また、いわゆる伝統宗教に限らない瞑想体験としては、特殊なマントラ(呪文)を唱えながら瞑想する場合もあります。


いずれにせよ、左脳のおしゃべりを止めるには、何かに集中することが最も効果的です。その集中する対象がマントラだったり梵字だったりするのですが、私は2年前、滝行中に突然メッセージを授かりました。それは「植物」と一体となる呼吸法だったのです。


動物と植物は一般的に呼吸が逆です。動物は酸素を吸い、二酸化炭素を吐きますが、ほとんどの植物は酸素を吐き、二酸化炭素を吸っています(まれに反対の植物もあるそうですが)。と言うことは、私たちが吐いた息を植物が吸い、植物が吐いた息を私たちが吸っていることになります。


そのことを意識した上で静かに目を瞑り「あいしてる」とささやきながら息を吐きます。ちなみに「数息観」においてもスタートは吐くことから。まずは出す、与えるが基本です。そして次に「ありがとう」とささやきながら息を吸います。「あいしてる」で息を与え、「ありがとう」で息を頂く。この繰り返し。「あいしてる」と「ありがとう」をただ呼吸に合わせて唱えるだけ。すると、突然、植物との一体感を感じ、至福の境地におかれます。


なるほど、やはりこの世は「一つ」なんだと実感するのです。私は瞑想においてこの呼吸法を取り入れ、しばし大自然との一体感に恍惚となる瞬間をよく楽しんでいます。


カテゴリー: |―禅・瞑想 | ■植物と一体となる呼吸法 はコメントを受け付けていません