【書評】「マンガでやさしくわかるNLP」山崎啓支著

確か2005年頃、NLP(神経言語プログラム)を知って学ぼうとした時、専門家向けの翻訳書くらいしか書店にはなく、必要以上に難しそうな印象を受けた。その後、雨後の竹の子のようにNLPの解説書が出版されたが、初学者向けとしては、本書は真打ちであろうか。なんせ「マンガでやさしくわかるNLP」だけに。
ただ、わかりやすいと言っても、それはこれまで数々の良質な解説書を出してきた山崎氏だけに、まったく手は抜いていない。単なるスキルの羅列集のようなものが多い類書の中でも、きちんとNLPの本質的理解から積み上げているところはさすがである。
大きな柱は5つ。「NLPの本質的理解」「プログラムの修正」「ラポール(信頼関係)」「新しいプログラムのインストール」「リーダーシップ」となる。それぞれの柱において、それに対応するスキルが紹介されており、さらに図解も詳しいので、実践しやすくなっている。ただし、同著書による「NLPの基本がわかる本」及び「NLPの実践手法がわかる本」を読んでいれば、それ以上の情報はないので、どこまでも初学者向けであろう。
また、各賞の後ろに挿入される「コラム」はNLPの理解を助けるためのちょっとしたコツが紹介されてあり、それもまた親切だ。よって、あくまで初学者向けとしてはこれ以上の良書は今後も出てきそうにないほどだ。ただし、欲を言えば、マンガのストーリーがもっと面白ければよかった。最初の数ページで結論がわかってしまい、なんのサプライズもないのは、物語としては辛口にならざるを得ない。もっとも、マンガの部分は全体の半分にしかないので、あくまで「NLPとはなんぞや?」にとっかかるため以上のものではない。
マンガでやさしくわかるNLP/山崎 啓支

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人生を変える100日ブログ:77日目


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■量より質

こんばんは、行動強化コンサルタントの石田久二です。


「美味しんぼ」という漫画の中に、このような話があります。とにかく常軌を逸した大食男がいて、その人をどうにかして欲しいとのテーマ。確かに漫画で見ているだけでも気分が悪くなるような大食いで、ご飯などはお櫃のままぶち込み、おかずも次々と平らげ、無数のお皿が机の上に重ねられます。


そこで、確か松茸と鱧のお吸い物など、高級な料理を食べさせ、あまりの美味しさにぼーっとなり、それで食べ物の有り難みがわかると言う結論。それで大食いが治ることになります。漫画なのでどうこう言いませんが、いつもの通り都合のよい結論です。ただ、話の展開としては頷ける部分もあります。


先日、インターネット上に「太る食べ方」が紹介されてあり、その一つに「テレビを見ながら食べる」なるものがありました。テレビに気が紛れて、お腹がいっぱいになるのが遅くなる、のような理屈だったと思います。と言うことは、太らないためにはテレビなど見ずに、目の前の食事に思いを入れて食べればいいことになります。


また、以前、坐禅道場の参禅会に参加したとき、その中でお茶菓子を頂くセレモニーがありました。小さなお饅頭とほうじ茶を、皆さんと一緒に、老師にあわせてゆっくり頂くのです。だいたい三口ほどで食べてしまう大きさ。私は少しお腹がすいていたので、量から言えば足りません。ですが、その三口を思いを込めて真剣に味わってみると、今まで気が付かなかった甘さや香りが広がり、それだけで十分に満足させられたのです。


つまり、「質」は「量」を凌駕するのです。とにかくゆっくりと味わい、その対象と一体化するかのごとく思いを込めて頂くと、もはやたくさん食べる必要はなくなる。そのような話です。


これはお酒でも同じこと。私が思わず酒の量が増えてしまうのは、昔の仲間と会って、懐かしい話に花を咲かせているときなど。その場では、どうしても「話」が主役になるので、お酒は潤滑油のごとく消費してしまいます。確かにその場は最高に楽しいのですが、翌朝はお酒が残って苦しい思いをします。


一方で、お酒を楽しむことを「目的」とした場合はどうか。ちょっといいバーなどで、純粋に美味しいお酒を楽しむ場合。もちろんそれが「いい酒」であることが条件ですが、ゆっくりと香りを含みながら、噛むようにお酒を滑らせていくと、それはそれは極上のひとときを味わうことができます。当然、ペースもゆっくりだし、たくさん飲む必要もありません。多少高いお酒であっても、安い酒をたくさん飲むのと費用は変わらないかもしれないし、何より身体にいいです。


私はタバコを吸わないのでよくわかりませんが、もしかしたら同じことかもしれません。本数が多い人を見ていると、たいていくわえタバコのながらタバコです。タバコそのものには集中していません。なのでもしかしたら、一本一本を「極上の一本」のように味わって吸うと、本数も減るのではないかと推測します。
いずれにせよ、量より質なのです。


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【書評】「メメント・モリ」藤原新也著

藤原新也の本がなぜか家には何冊もある。「全東洋街道」「アメリカ」「印度放浪」「ディングルの入江」「藤原悪魔」「風のフリュート」「鉄輪」、、、そして「メメント・モリ」。今列挙したのは頭にあるのをそのまま並べただけ。思い出すとかそんなのではなく、3年間同じクラスだった連中の名を並べるより簡単だった。私自身はそんなに記憶力がいい方じゃないが、それでも藤原新也の本は、しかもそんなに読んでないのにタイトルが並ぶ。

人の記憶に残るのは二種類でしかない。一つは繰り返しそれに接すること。数字を1から10まで言えるのは、それを何度も何度も使っているから。言葉だってそうだ。般若心経だって、何度も繰り返し唱えるから覚えられる。だけど、藤原新也の本は、そんなに読んでないのに一発で覚えられる。それは記憶に残るもう一つの種類。インパクトだ。

藤原新也の本はどれを見ても衝撃だ。いい意味に限らず。なので、半分ほど読んで閉じて5年も眠らせることがある。残り半分はそこから読む。だけど、一冊もブックオフには出してない。般若心経が印刷された封筒は捨てられない。知人の経営コンサルが使っている姑息な方法だ。同じように、藤原新也の本は捨てられない。本書は特にそうだ。なぜならこんな本を捨ててしまったら、きっと罰が当ろうから。

「メメント・モリ」とはラテン語で「必ず死ぬことを忘れるな」と言う意味らしい。統計学によると、人間の死ぬ確率は100%らしい。もちろん私が今後、100%死ぬとは限らない。もしかしたら宇宙が爆発するまで生きているかもしれない。100億年生きてるかもしれない。そんなこと生物学的にあり得ないと言うだろう。しかし、自分だけ突然変異で死なない身体に生まれ変わるかもしれない。その可能性はゼロではない。そんなとき、私が死ぬ妥当性を示す根拠がある。それが統計学だ。統計学とはあくまで概算である。100%を担保するものじゃない。だけど、限りなく100%に近ければ、それは100%と見なそうと決まりがある。その意味で、私が死ぬ確率は統計学的には100%である。

だけど、世の中にはそれでも自分だけは100億年生きると思ってる人がいるかもしれない。いや、割と多いだろう。だって、人は今、死んでないのだから。人は経験していないことを感じる力はない。なのに、人は誰もが死ぬだろうとは思っているのはなぜか。いや、もしかしたら思ってないのかもしれない。自分だけ死なないと思ってないか。それはおそらく正解だろう。

本書を「読了」するのにかかる時間は5分。もちろんフォトリーディングじゃない。写真と短い文字しかないから。だけど、「読破」するのは永遠に無理だろう。たぶん、本当に死ななきゃわからないだろうから。前半はヒンズーの聖地バラナシで死体が並ぶ。人が死ぬために訪れる場所がバラナシ。「メメント・モリ」の名にふさわしいだろう。私も今まで4回行った。一つ言えることは、私はバラナシでは死なないだろうってこと。だって、この写真みても死ぬ気がしないから。

私が死ぬのは多分133ページ。その写真見たとき、あ、死ぬな、、、と思ったから。こんなどうでもいい本はやっぱり本棚にしまっておこう。藤原新也の本はどれもどうでもいい。私はインドもチベットもアイルランドもアメリカも大好き。藤原新也はなぜ、それらをすべて訪れて本まで書いてるのだろうか。真似しないで欲しい。

メメント・モリ/藤原 新也

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■世界は引きこもりを待っている

こんにちは、行動強化コンサルタントの石田久二です。
最近、これからの日本を支えるのは「引きこもり連中だ」なる意見を聞きました。つまり、今は「価値観」の転換期に来ており、これまでの日本社会の価値観に適応しなかった「引きこもり連中」こそが、新たな価値観を支える主軸になるという見解です。
実際そうかもしれません。引きこもり連中は能力が低くて引きこもっているのではなく、単に社会と価値観が合わないから出てこないだけ。今頃、新時代に向けてゆっくりと冬眠しており、一気に発芽するのを虎視眈々と伺っているのでしょうか。
ただし、間違っちゃいけないのは、引きこもりの中から新たな時代の主軸が出てくる可能性があるということで、引きこもっていると誰もが新たな主軸になるというわけじゃありません。なので、かなりの割合は引きこもりは引きこもりなのです。
ところで、芸能界での引きこもり代表と言えば、なんと言っても千原ジュニア。彼は小学生の頃から「あのこと遊んだからアカン」と言われる存在で、どこかおかしかったようです。つまりは、物心付いたときから社会不適合者で、中学生になっても変な問題ばかり起こして、いつのまにか自主的に引きこもりになったそうです。そんな期間が数年も続いたところ、兄のセイジが吉本の養成所(NSC)に入り、そこでジュニアも誘われます。何となくネタを作らされ、それを披露したところバカウケ。ジュニアが発芽した瞬間です。そして今、まさにジュニアの時代です。
芸能人ではもう一人、有吉弘行も忘れてはなりません。彼は元々は明るい存在だったのでしょうが、時代の悪戯か、猿岩石のユーラシア横断でブレイク。歌もヒットし時代の寵児となりました。しかし、消えるのもあっという間。猿岩石はすっかり「あの人は今」となってしまいます。
その数年後、まさに「あの人は今」的に登場したと思ったら、あれよあれよと再ブレイクし、有吉は今や日本で最もテレビで見る芸能人となってしまいました。そしてもはや、ブラウン管から消えることはないであろう安定感を有し、まさに有吉の時代となっています。有吉も発芽して花を咲かせました。
これは芸能界に限ったことではなく、ビジネス界その他一般社会においても、今の引きこもりがそろそろ発芽してくるのでしょう。今、引きこもっている人がすべてジュニアや有吉のようにはなりませんが、どうせならとことん引きこもって欲しいと思います。そして力をためるのです。ジャズのスタンダードに「世界は日の出を待っている」という曲がありますが、今まさに、「世界は引きこもりを待っています」です。
そんなわけで、頑張れ引きこもり。君たちの発芽を待ってます。


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【書評】「大丈夫大丈夫だいじょうぶだから (続)」阿部敏郎著

大人気ブログ「いまここ」の著者阿部俊郎氏が2005年に自費出版で出した一冊。アマゾン中古で入手。今でこそ大手出版社からベストセラーを連発する阿部氏であるが、本書の出版社は単に「阿部俊郎」とあるのみ。ISBNは取っているので一般書点にも流通されたのだろうが、本当に手作り感満載の一冊である。阿部氏の他の著書については、ご本人や出版社から贈呈頂いているが、ここはあえて本書を評するところが、私の天の邪鬼なところである。
一読した感想は、他の著書と何も変わっていないこと。私ごとで言うと、私は2004年から毎日ブログを更新しているが、それから8年、様々な経験をし、気づき、文章力自体も向上しているのだろうが、著者は何一つ変わっていない。しかし、これはすごいことである。著者の伝えたいことは常に一つ。単にその一つを表現する角度が違うだけで、どこまでも一つなのです。なので、もし、本書が最新刊として出版されたところで、何の古さもないであろう。
本書はラジオパーソナリティ時代に視聴者から寄せられた質問に答える、一問一答式で進められる。テーマは「会社のこと・仕事のこと」「家族のこと・人間関係のこと」「心の持ち方」「人生観・人間観」「ひとりごと」からなり、それぞれに細かい質問が寄せらている。ブログや人柄の通り、全体的に優しい雰囲気があるが、ところどころに突き刺さる。
例えば「仕事で失敗して落ち込んでいる」という相談に対しては、「人間万事塞翁が馬」の話を優しく聞かせて心を安らかにする。かと思うと、「やりたいことがあるが会社に迷惑をかけそうだ、今の仕事を続けるべきか辞めるべきか」については、「本当にやりたければ、やってるよ」と両断。行動しない人というのは、言い訳の名人。まったくその通りである。
このような具体的な相談も面白いが、やはり著者の深い人生観こそが聞かせどころではないか。例えば「死後の世界」や「悟り」について。「死後の世界」は、、、そんなバカなこと聞く奴に限って、死んだら「生きるとはどういうことですか」と聞く。つまり、死ねばわかるのだから、今を生きろ。それが答え。そして「悟り」とは・・・その答えはいつも極めて明快である。
そして「神秘体験」について。プロフィールにはしばしば「30歳の時、突然の神秘体験を・・」と書かれてあるが、著者は「神秘体験」という言葉に極めて慎重である。そしてこの「神秘体験」という言葉にこそ読者のある種の「期待」があるのだろう。
一般に「神秘体験」と言うと、どうしても「特別」な何かを期待してしまう。まるで宇宙人にでも会うかのような、特別な体験をそこに求めるような。しかし、著者はあくまでその体験を「当たり前」の状態に置く。確かにきっかけとしては、衝撃的であったとしても、それによって突然、何か特別な人間になるわけではない。
しかし、私たち人間は社会的な条件付けにまみれながら生きており、その条件付けが「当たり前」を覆い隠している事実がある。そこで、「当たり前」として生きる者が少数派であれば、それは特別な存在と呼べるのかも知れない。しかし、本来、目指すべき、気づくべき姿とは、むしろ「当たり前」を「特別」だと思わない境地のことだろう。
そうなるためには、特別な方法は必要ない。確かに社会的条件付けによる自我のおしゃべりを抑える習慣づけは大切かも知れないが、死ぬときにはどうせわかること。早いか遅いかの違いはあれど、「神秘体験」なる幻想を求めるのではなく、今この瞬間瞬間をどれだけ生きられるか。そこに本来の姿があるのだろう。
そして本書を一読すると、まさに「当たり前」のことしか書かれていない。それをどの程度、「当たり前」ととらえらるかは読者に委ねられたことではあるが。
大丈夫大丈夫だいじょうぶだから (続)/阿部 敏郎

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