【書評】「生きて死ぬ智慧」柳澤桂子著

元々仏教とは縁もゆかりもない生命科学者による「般若心経」の訳本。本書を手に取る前、NHKの「ラジオ深夜便」のCDシリーズ「生命科学で読み解く般若心経」を何度も聞いていた。著者の肉声により語られる般若心経論に感動を覚えたものだ。著者は極めて優秀な生命科学者であったが、若き日に原因不明の難病に襲われ、以来、人生の半分以上は闘病生活である。
あまりの苦しさから何度も死のうと思ったそうだが、結局、思い切ることもできず宗教に救いを求めようとする。とりあえず仏教に馴染みを感じ、仏教に関する本を読んでいたのだが、その折り、いよいよ職場から解雇され、我が子を失うかのような悲しみに突き落とされた。その晩、夜が明けようとしたとき、突然、著書に「神秘体験」が訪れた。炎に包まれ、目の前の一本の道ができ、もう大丈夫と悟った。そして何とも言えない幸せに包まれたと言う。
このような「体験」は実はさほど珍しいことではない。同じような、それも驚くほどに似たような「体験」をしている人がいる。その瞬間にすべてを悟ってしまう。そのすべてとはまさに「空」への悟りであろう。
著者は元々は自然科学の研究者であったが、実はお釈迦様も自然科学的な知識と直感により「空」の本質を直視していたのではないかと仮定する。もしかしたら、紀元前5世紀のギリシャの哲学者デモクリトスの「原始論」をお釈迦様も知った上で「空」を説いたと考えた方が、特にこの「般若心経」においては自然ではないかと言う。
本書の極めて興味深い点は、著者がまず「悟り」に対する一時体験を有し、そして自然科学的な見識と、そして歌人としての完成により「般若心経」を読み解いたことであろう。
仏教では人生の本質を「苦」と説くが、同時にその「苦」を超えることもまた仏教の指南することである。では、なぜ人は苦しむのか。著者はその根元に「自我」の存在を置く。原因不明の難病により、想像を絶する「苦」を味わい、その極限に来たとき、「悟り」は突然やったきたのだと言う。「空」とは何か。それは物質の最小単位である「原子」のこと。この世界はすべて一元的な「原子」でできており、単にその濃淡があるだけ。
実のところ「空」を「原子」に求める般若心経解釈は珍しくはない。むしろ量子力学が物理世界の前提にある今、ごく自然な感覚でとらえられる。それでもやはり本書が心に響くのは、著者の体験性によるものだろう。苦しみの原因は自我にある。これもまた仏教によらずあらゆる宗教が主張していることだが、著者は実際に「神秘体験」により自らの自我が消滅し、絶対的な至福を体験したからこそ書ける般若心経訳である。
今や般若心経に関する解説書は無数にあるが、本書が異彩を放っているのは、実際に手にとって一読すればわかるであろう。凡百の解説書よりも遙かに「空」を体験できる一冊である。
生きて死ぬ智慧/柳澤 桂子

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■政治家と宗教家の共通点

こんばんは、行動強化コンサルタントの石田久二です。


さっきふと思ったのですが、つくづく政治と宗教(スピリチュアル)は似てるんじゃないかって。どこが似てるかと言うと、それは「煩悩に支配されてると務まらない」ということ。政治家の仕事は世の中を良くすること。だけど、やってることはほとんど選挙対策。もちろん選挙で選ばれないと政治はできないのだろうけど、選挙はあくまで手段でしかない。だけど、多くの政治家にとって選挙は完全に目的化している。


今の野田総理にしても、野党時代は増税絶対反対だったのが、選挙で勝ったとたんになかったことに。「子ども手当」も「高速道路無料化」も最初から期待できなかったけど、やっぱりなかったことに。昔、小沢一郎が「公約は膏薬。張り換えれば効き目が出る」とよく言ってたそうですが、それが政治家の本音。政治家も選挙落ちればただの人。そうならないためには、嘘でもハッタリでも印象操作でも洗脳でも、なんでも使って勝つしかない。


それに比べると、橋下大阪市長はちょっと違う感じもする。橋下市長と他の政治家との決定的な違いは、橋下市長は「プロ」じゃないこと。この場合の「プロ」とは選挙のプロの意味で、揶揄を込めた言い方。もちろん橋下市長も当たり前に選挙活動はしてたのでしょうが、正直、彼は落ちてもびくともしない。元々、弁護士でタレントで十分に稼いでいたので、落ちたところでいくらでも食っていける。だけど、並の政治家は落ちてしまえば借金取りが事務所に押し掛けるだけ。


その点から見ると、橋下市長は少なくともお金に対する煩悩はない。平たく言えば、やっぱりお金にとらわれない人に政治をやって欲しいと思うし、そうなるとどうしても経済的に成功した人じゃないと務まらない。それに近かったのが、元総理の麻生太郎氏ですが、個人的には惜しい人材だったと思っています。故・中川氏とともに。


それと同様、宗教やスピリチュアルもやっぱりお金に対する煩悩の強い人には語って欲しくないものです。その人たちの仕事は人の心を良くすること。だとすれば、自分自身が一番満たされてなければ意味がない。だけど、そんな人は決して多くなく、目につくのは人を脅して金品を巻き上げようとする宗教家やその類の人たち。その人たちは自分自身を「目に見えない世界が見える人」とラベリングしているので、もう言いたい放題。お布施をケチったら成仏できないなど、確かめようのないことで脅してくる。ヒーリングやリーディングなどもそうで、あそこが悪いだの、天使がどうのこうのとか、確かめようのないことで相手を脅し、そして金品を巻き上げる。


それは完全に言ったもん勝ちなので、自らの煩悩を満たすために、人々はまるで打ち出の小づち。なので、私はしばしば言います。お金に困った占い師、チャネラー、拝み屋、またはカウンセラー、コーチ、コンサルタントに仕事を頼んではいけませんよ、と。人は煩悩に支配されると弱くなります。相手のことを考えると言いながら、どうしても自分を優先させてしまう。


だから、すごく逆説的なことだけど、政治家にしても宗教家にしても、煩悩を消滅させるよりも、ガンガンに稼いで煩悩を焼き尽くしてしまった方がいい。清貧を装うよりも、「お金は十分にありますよ」って状況を見せた方がいい。だから、やっぱりまずは実業でしっかり稼いで、そこに「使命」が芽生えたら、政治や宗教(スピリチュアル)の世界に入る方が健全だと思っています。


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【書評】「お釈迦様の脳科学」苫米地英人著

タイトルには「脳科学」とあるが、実際は苫米地流仏教概説。所々、と言うか全体において眉に唾をつけながら読むべき言説はあるが、あくまで「苫米地英人」というフィルターを通した仏教論として読むと、非常に面白い。ようは、鵜呑みにせずに読むといい。
最近はオウム真理教などカルト批判から広がり、電通やテレビなどメディアによる洗脳批判を繰り返しているが、著者の興味深い点、ある意味危険な点は、いわゆる「洗脳されたくない層」を一気に洗脳することに成功していること。著者の書く「陰謀論」などを読むと、いわゆる苫米地信者は「自分は真実(裏の事実)に目覚めている」などと錯覚し、苫米地氏を疑えなくなってしまう。私の知人にもそのような人がいた。
なので、本書に書かれてあることが「事実」だと真に受けてもらっても困る。実のところ、著者は自身の「洗脳言論」でも告白している通り、1996年にオウム信者の脱洗脳に関わるまでは仏教知識はほぼゼロだった(46頁)。とりあえず付け焼き刃に手塚治虫の「ブッダ」を読んだ程度で脱洗脳の挑んだのである。しかし、それを機に仏教全般に対する造形を深め、専門書ならずとも、仏教に関する一般書を次々と発行し、さらに「阿闍梨」の称号を得るに至るのだから、その学習能力は驚嘆に値する。ただ、言ってみれば「その程度」であるので、本書に関してもかなり距離を置きながら読むのがいいだろう。
例えば「般若心経」は偽経であることは「定説化しつつある」と書かれているが、断言するには余りに資料不足である上に、本質的な議論ではない。そもそも、お釈迦様が書いた「経」は一文字もない限り、仏教の経はすべて偽経であろうし。また、「色即是空空即是色」の解釈は完全に苫米地氏独自の解釈に過ぎない。「色即是空(色=空)」は正しいとしても、「空即是色(空=色)」は不十分であると言うが、それも単に解釈の仕方の問題であって、「般若心経」をすべて否定する材料とはならない。
さらに明らかに間違っている点もある。経中では「観世音菩薩」が「舍利子」に「空」について教える形となっているが、「菩薩」は本来悟る以前の者であるのに対し、「舍利子」は釈迦の一番弟子であり、すでに悟った者である。ゆえに、悟る以前の者が悟った者に対して「教える」ことはあり得ないと言う。しかし、「般若心経(及び般若経)」における「観世音菩薩」とは正確には「菩薩摩訶薩」のことであり、直訳すれば「偉大なる菩薩」となる。つまり、ここでの「観世音菩薩」は本来であれば悟りを啓いた者であるが、衆生の隅々までを救済するために、わざわざ「菩薩」として降りてきた者である。従って「格」の話で言えば、「観世音菩薩」が「舍利子」に教えたところで、何も間違ってはいない。
それから、これは蛇足と言うべきか、「般若心経」の最後の呪文「ぎゃーてい、ぎゃーてい・・」は元々5500年前のシュメール語であったと言う。このことに対する批判は誰もできないであろうが、いい意味で、著者のぶっ飛んだ発想力に驚きを隠せない。ただし、世間で「般若心経はシュメール語」などと言うと「ムーの読み過ぎ」と判断されようから、あくまで苫米地学説として感心するに留めた方が良いであろう。
ただ、以上のような細かい点はいろいろあるのだが、全体としては非常に面白く読めた。きちんとした仏教学者の説と平行して読むと、さらに本書が面白くなる。著者の仏教に対するスタンスはあくまで「お釈迦様原理主義」である。お釈迦様の死後5~600年で大乗仏教が確立され、それにより仏教の教義側面が一応の完成を見たとされる。しかし、そこから地域や時代を経て、チベット、中国、そして日本にまで、様々な仏教宗派が誕生した。そのプロセスでバラモン的な呪術信仰を取り入れたのが「密教」であり、さらに中国の儒教・道教をミックスして伝わったのが、日本における各仏教宗派である。
それらは確かに人々の文化に根ざした手に取りやすい教義として受け入れられたのであろうが、お釈迦様本来の教えからかなり逸脱してしまった。お釈迦様の教えとは「この世はすべて空である」ということ。まさに「色即是空」の世界であり、言い換えるとこの世はすべて「幻想」である。
しかし、密教にせよ日本の宗派にせよ、例えば霊や生まれ変わりの存在を前提としていたり、中にはお釈迦様が一番に否定した「アートマン(いわゆる一この魂)」が当たり前のように登場したりする。日本は一応のところ代表的な仏教国と言われるが、そのほとんどが「葬式仏教」となっており、最近までお釈迦様の教えがほとんど伝えられてこなかった。言い換えると、仏教は単なる非課税ビジネスであり、僧侶も「空」を説かずに、「霊」や「あの世」を説くことで檀家から金銭を巻き上げている。
余談であるが、私の近所には「篠栗四国88カ所」なる霊場があり、年輩の集団がよくお遍路で歩いている姿をみる。その一カ所のお寺と雑談がてら聞いてみたところ、お賽銭だけでも年間1000万円は下らないとのこと。しかもそのお寺は山の上の不便な位置にある。もちろんお賽銭以外にも稼ぐ手段はあろし、その稼ぎはすべて非課税。そのお寺にはベンツが2台ばかりある。1200年経った今でも空海の褌だけで経営が十分に成り立っている。お釈迦様が見たらなんと言うだろうか。
結局のところ、日本の仏教はその根幹である「空」の思想を蔑ろにし、それどころか都合の良い「幻想」を人々に広げる、つまり「洗脳」することで生き残ってきたのである。本来、「悟り」に一番近いはずの仏教が、皮肉なことに、最も遠い場所へと流れてしまったのが現状である。だから、日本の僧侶は「くそ坊主」として揶揄されるのである。
その意味で、本書は日本の仏教の現状を認識し、本来の仏教、宗教、そしてスピリチュアルのあり方を考える上でも一読に値する。
お釈迦さまの脳科学 釈迦の教えを先端脳科学者はどう解くか? (小学館101新書)/苫米地 英人

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■人生を変える顔写真

こんばんは、石田久二です。


フェイスブックなどウェブのページに「顔写真」を掲載している人も昨今は多くなりましたが、この「顔写真」はつくづく大切だと実感しています。


ところで今、自分の知人をランダムに5名ほど選び出してみてください。そして次に、その一人ひとりの「顔」を思い出してみてください。そのときに思い出せる「顔」はどんな表情でしょうか。笑顔ですか?無表情ですか?それとも怒っていますか? 


その思い出した「顔」こそが、他人に与える「顔」の印象そのものです。私も今、数名を思い出してみましたが、何名かはすぐどころか「どうしても笑顔が思い出せない人」がいることに気が付きました。そしてその人たちは、私にとってどちらかと言うとあまり仲良くしたくないタイプのようです。


逆にすぐに「笑顔」を思い浮かべることができる人は、今すぐにでも一緒に飲みに行きたいタイプ。それは男女問わずです。そしてその「笑顔」なんですが、面白いことに、フェイスブックの「顔写真」そのものの割合がめちゃくちゃ多いようなのです。ただし、好感度が高いのはあくまで自然な笑顔。コーチやカウンセラーに多いのですが、どう言うわけか、斜め上のカメラに構えた業務用的な写真をよく目にします。おそらくプロのカメラマンがそのようにしたのでしょうが、私個人的には「斜め上目線」の写真はあまりいい印象を持ちません。


圧倒的に印象はいいのは、スナップとまでは言わないけど、限りなくその感じに近い笑顔の写真。プロのカメラマンが業務用の写真を撮れるのは当たり前ですが、スナップ写真に近い感じの自然な顔写真を撮れる人って案外少ないのかな、とも思います。


ただ、業務用の「斜め上目線」であっても、「無表情」よりは100倍マシでしょう。正直、人から「笑顔」を思い出してもらえない人は、人生において圧倒的に損をしていると思います。ここで思い出してもらえるかどうかは「回数」によります。しかし、学校や職場でもない限り、リアルに何度も顔を見せる機会は極めて限定されています。


そこで使えるのが、そう、フェイスブックなどウェブページです。そこにいい「笑顔」の写真を載せておくだけで、人はその顔を真っ先に思い出すようになります。ランチなど行く際、入念に調べて行くことは日常ではまれで、たいていがちょっと思い出した店になるとのデータもあるようです。そう、思い出してもらうことはとても大切。人も「笑顔」を思い出してもらえるか、「無表情」を思い出してもらえるかは、人生の楽しさにおいて大きな開きがあるように感じます。


どうしても顔を出せない人は仕方ないですが、顔写真をウェブに出すメリットはいろんな意味で計り知れないようです。もちろん「笑顔」に限るですが。もしかしたら一枚の「写真」がその後の人生を変えることだってあるかもしれませんね。


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【書評】「サイレント・パワー―静かなるカリスマ」スチュワート・ワイルド著

スチュワート・ワイルドと言う人は、一部の人たちを除いて、日本ではあまり知られていない。しかしこの「サイレント・パワー」は是が非でも読むべき一冊である。サイレント・パワーとは何か。著者はそれを「エーテル」という呼び名で表すが、スピリチュアルな世界ではそれを「オーラ」と呼ぶかもしれないし、ギリシャの哲学者がロゴス(論理)、パトス(情熱)に並ぶ「エトス(影響力)」と呼んだものかもしれない。ただし、エーテルとは形のない雰囲気的なものではなく、本書の後半で説明されるが量子的物体を持つもので、それは目に見えるだとも言う。
いずれにせよ、それは決して力みの入った一生懸命なパワーではなく、逆説的にも力を感じさせない、文字通りサイレントなパワーのこと。もしかしたら身近にいるかもしれない。さして前に出てきたりせず、どちらかと言うと口数も少ないのに、そこにいるだけで説明できない存在感を感じさせる人間が。そして、ひとたび口を開こうものなら、一斉に視線を集めてしまう力がある。それがまさに「エーテル」を身にまとった「サイレント・パワー」である。
逆にいつも大声で数多くの言葉を発しながらも、終わってみるとまったく印象に残っていないような人間もいる。ただ、うるさいイメージだけしか与えないような。それは一見、エネルギッシュに見えるが、場に与える影響力は決して大きくない。
ビジネス、リーダーシップ、恋愛など、あらゆる「人間関係」において必要なのは、このサイレント・パワーに他ならない。では、どうすればそのパワーを身にまとうことができるのか。一言で言えば、「必要なこと以外はしゃべるな!」と言うことである。本書にも例示されていたが、私が初めてインドに行ったとき、知人の中年女性が是非その話を聞きたいというので語り始めたところ、いきなり話を遮って「それは戦後の日本と一緒」だと、聞きたくもない思い出話をし始めた。これは間違いなく余計な言葉であろうが、私自身もそのようなことが無きにしも非ずで自戒を促される。
本書でも指摘されているが、とにかく人はしゃべり過ぎる。では、しゃべらないのがいいかというと、確かにいい。しかし、単に引っ込み思案なだけでしゃべらない人は、お酒を飲ませるか、とりわけ興味のある話をふったりすると、封を切ったようにしゃべり出すことがよくある。大人しい人間が、必ずしもサイレント・パワーを身につけているとは限らないのである。蛇足だが、リアルではめちゃくちゃ大人しいのに、ネットの掲示板やコメント欄ではやたらと饒舌になる人がいるが、言うまでもなくそれはサイレン・パワーとは真逆のものである。
要するに、しゃべりたくてたまらない状況にあっても、それを抑えることが重要であり、そこにパワーが宿るのである。思えば確かに、私の知る中でとりわけ影響力のあると思える人間は無駄なことはしゃべらない。食事も一人だし、飲み会の場でも聞かれたことしか話さず、もっぱら質問の側である。余程のことがない限り二次会にも行かない。しかし、そんな人から出る言葉は極めて重量感がある。おそらく意識的、無意識的にパワーの調整をしているのだろうか。
また、本書は一貫してタオイズムの哲学が通底している。タオイズムとは訳者の言葉を借りると「すべてはひとつなのだから、あれこれと恣意的な判断をせずに、それを受け入れて、悠々と流れに任せて生きよう」ということが説かれたもの。結局のところ、必要以上にしゃべるなというのも、自然に任せて悠々と生きよと言うことにつながるし、それは行動においてもそうである。
人はとかく必死になる。夢や願望に向かって頑張って努力する。このような姿勢は一般的によく受け入れられやすい。しかし、必死になる裏には「~ねばならない」などのネガティブな感情が伴っていることがほとんどである。もちろん夢や願望を持つことは明確に否定されることではないが、必死でときには深刻な場合、それらが成就することはまずないだろう。夢や願望が叶うとき、それは例外なく自然の流れに任せたときである。もちろんそれは「なにもしない」ことを意味するものではない。「なにもしない」にも大変な努力が必要なこともある。
自然の流れに任せるとは、つまり「行動に感情をはさまないこと」である。例えば私自身、明確な目標に向かって行動計画を作り、頑張って進めて「頑張って」いるかのように思われるが、やってみると実はそうでもない。例えば「腕立100回」などは大変に見えるが、やると決めた以上、何も考えずにやればいいだけ。そこに余分な感情が入る隙はない。あくまで淡々なのである。
思うに、ここで紹介される「サイレント・パワー」とはあらゆる「パワー」と名の付く力の中で、最上位に位置するものである。それを身につけるための具体的な方法については、例えば瞑想などあるが、詳しくは本書に譲りたい。いずれにせよ、なるべく早い段階でそのパワーの存在に気がつくと、それ以降、人生の質に大きな影響が出ることは間違いない。必読である。
サイレント・パワー―静かなるカリスマ/スチュワート・ワイルド

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人生を変える100日ブログ:70日目


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