【書評】「メメント・モリ」藤原新也著

藤原新也の本がなぜか家には何冊もある。「全東洋街道」「アメリカ」「印度放浪」「ディングルの入江」「藤原悪魔」「風のフリュート」「鉄輪」、、、そして「メメント・モリ」。今列挙したのは頭にあるのをそのまま並べただけ。思い出すとかそんなのではなく、3年間同じクラスだった連中の名を並べるより簡単だった。私自身はそんなに記憶力がいい方じゃないが、それでも藤原新也の本は、しかもそんなに読んでないのにタイトルが並ぶ。

人の記憶に残るのは二種類でしかない。一つは繰り返しそれに接すること。数字を1から10まで言えるのは、それを何度も何度も使っているから。言葉だってそうだ。般若心経だって、何度も繰り返し唱えるから覚えられる。だけど、藤原新也の本は、そんなに読んでないのに一発で覚えられる。それは記憶に残るもう一つの種類。インパクトだ。

藤原新也の本はどれを見ても衝撃だ。いい意味に限らず。なので、半分ほど読んで閉じて5年も眠らせることがある。残り半分はそこから読む。だけど、一冊もブックオフには出してない。般若心経が印刷された封筒は捨てられない。知人の経営コンサルが使っている姑息な方法だ。同じように、藤原新也の本は捨てられない。本書は特にそうだ。なぜならこんな本を捨ててしまったら、きっと罰が当ろうから。

「メメント・モリ」とはラテン語で「必ず死ぬことを忘れるな」と言う意味らしい。統計学によると、人間の死ぬ確率は100%らしい。もちろん私が今後、100%死ぬとは限らない。もしかしたら宇宙が爆発するまで生きているかもしれない。100億年生きてるかもしれない。そんなこと生物学的にあり得ないと言うだろう。しかし、自分だけ突然変異で死なない身体に生まれ変わるかもしれない。その可能性はゼロではない。そんなとき、私が死ぬ妥当性を示す根拠がある。それが統計学だ。統計学とはあくまで概算である。100%を担保するものじゃない。だけど、限りなく100%に近ければ、それは100%と見なそうと決まりがある。その意味で、私が死ぬ確率は統計学的には100%である。

だけど、世の中にはそれでも自分だけは100億年生きると思ってる人がいるかもしれない。いや、割と多いだろう。だって、人は今、死んでないのだから。人は経験していないことを感じる力はない。なのに、人は誰もが死ぬだろうとは思っているのはなぜか。いや、もしかしたら思ってないのかもしれない。自分だけ死なないと思ってないか。それはおそらく正解だろう。

本書を「読了」するのにかかる時間は5分。もちろんフォトリーディングじゃない。写真と短い文字しかないから。だけど、「読破」するのは永遠に無理だろう。たぶん、本当に死ななきゃわからないだろうから。前半はヒンズーの聖地バラナシで死体が並ぶ。人が死ぬために訪れる場所がバラナシ。「メメント・モリ」の名にふさわしいだろう。私も今まで4回行った。一つ言えることは、私はバラナシでは死なないだろうってこと。だって、この写真みても死ぬ気がしないから。

私が死ぬのは多分133ページ。その写真見たとき、あ、死ぬな、、、と思ったから。こんなどうでもいい本はやっぱり本棚にしまっておこう。藤原新也の本はどれもどうでもいい。私はインドもチベットもアイルランドもアメリカも大好き。藤原新也はなぜ、それらをすべて訪れて本まで書いてるのだろうか。真似しないで欲しい。

メメント・モリ/藤原 新也

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