■風水の本質

こんばんは、行動強化コンサルタントの石田久二です。


西に黄色をおくとお金が貯まる。「風水」の一般書でよく見る話です。しかし、結論から言うと、「風水」の本に書かれてあることのほとんどは根拠のないデタラメです。ここまで言い切ってしまえるには根拠があります。あえて参照はしませんが、例えば風水の本が3冊あれば、どれも違うことが書かれてあるからです。



もちろんそれぞれの本の立場からは、すべて正しい視点で書かれているのでしょう。ですので、特定の一冊のみに依拠している限り、その人にとってはデタラメとは言えないことは認めます。しかし、大きく「風水」というジャンルに乗せた場合、同じ内容に対して矛盾・拮抗する主張があれば、風水そのものはデタラメとなってしまうのです。


その点、自然科学は違います。仮に拮抗する主張があったとしても、それは実験や論証によって決着が付くものだし、そうすることを科学者自身が一番望んでいます。それに対して、風水は違います。そもそも客観的根拠もないのだから、自分が正しいと言い合うだけで、交わることも、もちろん決着が付くこともありません。


しかし、そんな風水でも、たった一つ、意見のすれ違わない主張があります。10人の風水があれば、10人全員が認めるセオリー。それは、

「掃除」

です。「掃除」を否定する風水師はまずいません。いたとしたら、その人は元々風水のジャンルにない人なのでしょう。と言うことは、ここに風水の本質が見て取れます。風水とは実は、掃除の言い換えだったのです。つまりは「掃除」さえきちんとしておけば、風水で得られる効果がきちんと現れることになるのです。


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■足の裏で呼吸する

こんにちは、行動強化コンサルタントの石田久二です。


たまにはちょっと奇妙な話をしたいと思いますが、私たちは通常、鼻や口で空気を吸って、肺を循環させてそれを吐くことを「呼吸」と呼んでいます。しかし、滝行をやって実感するのは、実は「呼吸」の範囲はもっと広いのではないかと言うこと。


今の季節は水も優しいのでそうでもないですが、真冬は痛いとか冷たいよりもまず、「呼吸」ができなくなります。それは水の冷たさに対して、急激に身体が収縮することで、呼吸器をふさいでしまっているのだと感じています。逆に言うと、それだけ急激な変化は身体によくないので、早く滝から出ろとの無意識の合図なのかもしれません。


そんなとき、とにかく空気をたくさん吸って、ゆっくりと吐くこと。これを繰り返すことで、冷たさが身体に馴染み、呼吸も楽になってきます。しかし、苦しいのは単に呼吸器が塞がれているからとは限らないとも感じます。つまり、「皮膚呼吸」なる言葉ある通り、私たちは普段、全身で呼吸をしていると考えられます。実際、金粉を身体全体に塗りたくるパフォーマンスがありますが、それは金粉が皮膚を覆い皮膚呼吸ができなくなるため、あまり長くはできないと言われます。


その意味で言うと、真冬の滝で苦しいのは、皮膚の収縮による皮膚呼吸の困難さによるものかもしれません。ただ、その延長上で考えると、私はしばしば変わった呼吸法を実践することがあります。それは「足の裏」で呼吸をすること。鼻や口で酸素を吸うかのごとく、足の裏からも空気を吸い取るのです。もちろんこれはイメージだけのことですが、それがなかなかに効くのです。なんだか身体がむずむずしてくるのですが、明らかに何らかのエネルギーが入ってきます。


このエネルギーの正体はおそらく「気」と呼ばれるのでしょうが、イメージで「気」をコントロールすることの効果がどれほど強いかを、しばしば滝などの過酷な場で実感することがあります。しかし、それは滝ではなく、今この場でもできること。身体がむずむずしてきたら、何らかの効果があると考えていいでしょう。そしてその効果は、極めて身体に良いもののようです。


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【書評】「社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!」ちきりん著

小飼弾氏のように元々ネームバリューのある人がブログを書いて著者になったのとは異なり、無名の一サラリーマンが日記代わりにブログを始め、それが大ヒットして出版においてもベストセラー作家になった、ちきりん氏の3冊目。私もブログを愛読しているが、まず、文章にリズムがあってとても読みやすく、そして何よりちきりん氏の社会を見るフィルターが独特で、そこが最大の魅力となっている。


ちきりん氏の著書のテーマでもある「考えよう」はまさに自分独自のフィルターを持ち、そこから見た世界を表現しよう、とのことに他ならない。本書はまさに著者のフィルターを通してみた旅行記であり社会文化論である。


確かに旅に出ると語りたくなる。私ごとだが、以前、世界一周の旅をしているとき、こんなことを言う旅人がいた。ヨルダンの安宿だったと思うが、彼は日本を出てから長く、かなりの期間、旅をしているようだった。バックパッカーにとって「旅の長さ」は一種のステータスでもあるようで、彼の話を聞きに短期の学生らしき旅行者がベッドを囲んでいた。私も同室で聞くともなしに聞いていたが、話はスリランカ旅行に及んだ。その部屋にはスリランカに行ったことのある人が誰もおらず、当然、誰も詳しくない。


その彼が言うに、スリランカは路線バスに乗せてくれないのだそうだ。基本的に道路で手を挙げると、現地に人だと止まってくれるのだが、旅行者は素通りされることが多いと言う。私もスリランカには行ったことがあるのでよくわかる。ただ、その乗せてくれない理由を聞いて目が点になった。「小乗仏教」だからだと言う。今時、日常で「小乗仏教」と言うのも珍しいが(通常は「部派仏教」や「上座部仏教」と言う)、それはさておき、バスに乗せてくれない理由が、なぜに「小乗仏教だから」なのか。だとすれば、同じ小乗仏教のタイやミャンマーもバスに乗せてくれないのではないか。


おそらく彼の中で、スリランカについて知ってる知識が「小乗仏教の国」である程度だったのだろう。よって、現地で起こるすべての現象はすべて小乗仏教に理由が起因するのである。ただ、唯一彼の偉いところは、その一連の現象を自分で考えた、と言う点である。しかし、悲しいかな、知識が不足しすぎていた。ちなみにスリランカがバスに乗せてくれない理由は、外国人旅行者には専用のバスやタクシーなど、ツーリスト用の移動手段が確立され、効率的をお金を落とさせるシステムができているから。なので、物価はインドとさほど変わらないながら、上手に出費が増えていくのである。


話が大きくそれてしまったが、ちきりん氏はまず自分で考えることがベースにありながら、国際政治、経済、文化に対する知識見識もたいそうなものである。ただ、本書に限ってはどこまでが一般の定説なのか、ちきりん氏の独自見解なのかははっきりとはわからないが、行ったことのある国ない国に限らず、「なるほど」と思いながらスピーディに読ませてくれる。


例えば「伊藤博文のお札が消えたワケ」などはどうか。確かに伊藤博文は聖徳太子などと同様、昭和のお札であるが、お札のデザインなどコロコロ変わるし気にすることでもなかった。それが、次の年表を見ると、確かにドキッとする。

1981年 7年後のオリンピックの開催地がソウルに決定
1984年 日本の紙幣の全面改定(伊藤博文などが消える)
1988年 ソウルオリンピック

こう並べられると、ちきりん氏でもなくとも推測はできる。伊藤博文は豊臣秀吉と並んで、韓国(朝鮮)では最大の敵(かたき)である。秀吉は朝鮮出兵(して唐辛子を持ち込んだが)、伊藤は日韓併合の総統者であったから(伊藤は日本の国益にならぬと反対していたそうだが)。いずれにせよ、ソウルオリンピックにより日本の観光客が増えた際、伊藤博文のお札が韓国の市中に出回ってはまずいのだ。


そのように考えると、お札のデザイン一つとっても、その国のアイデンティティなり、国際社会における立ち位置なりが見て取れ、身近な小さな材料がいかに大きな問題にくい込んでいるかを考えるきっかけにはなる。ちきりん氏はそのようなフィルターを著書やブログを通して常に読者に与えてくれ、そのことから「オレも考えよう」という気にさせてくれるところが、著書の最大の魅力と言えよう。


そう言えば話は変わるが、最近は「お笑い」は流行らないそうだ。いやいや、今や空前のブームではないかと言われるだろう。しかし、厳密にはダウンタウン以降、単に笑わせられるだけでなく、自分も人を笑わせたいなる風潮が生まれたようで、確かに今流行っているのはドリフやひょうきん族のような大がかりなコントではなく、「すべらない話」のような誰にでもできそうな(だけどプロとして計算しつくされた)番組が多い。実際、DVDも売れているが、買う側はあれを見て「笑う」のではなく、「分析する」のだそうだ。


これと同じように、ちきりん氏の著書も単なるブロガーとして身近な存在であるだけに、「ちきりんはこう考えるが、オレはこうだ」なる軽やかな挑発心をところどころに挟み込んでくれている。もちろん「小乗仏教だからバスに乗せてくれない」のような、知ってる知識をつなぎ合わせただけのものでは決してなく、正直、素人には真似できないプロ作家としてのフィルター武装があるのだが。


村上春樹の本を読んでは「オレも書けそうだ」と思い、松本人志の芸を見ては「オレもできそうだ」と思う。しかし、到底そんなレベルには及びも付かず、それでも「できそうだ」と思わせるところに奥歯を噛みしめたくなる心憎さがあり、それが人気の秘訣でもあるのだ。ちきりん氏のブログや本を読んでもそう感じることがある。一冊の本を10秒で読む小飼弾にはなれずとも、ちきりんにはなれそうだ。それがまたちきりんの魅力なのであろう。

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■5,000円のセミナー

こんばんは、行動強化コンサルタントの石田久二です。


セミナー講師をする人間の言うべきことではないと思いますが、いろんなセミナーでたびたび顔を見る方がいらっしゃいます。セミナーの目的はいろいろあるでしょうが、あくまでも「自己投資」であることが本来のあり方でしょう。 


しかし中にはそうでない参加者もいるようです。評論家になるならまだしも、セミナーを受講したところでほとんど成長せず、自分のことを降られたら口を濁すだけ。だけどセミナーに参加していると、とかく居心地がいい。なぜなら誰も自分のことを否定しないし、何より学んでる感があって一時的にも心の空白を見なくて済むから。3,000円から5,000円前後のセミナーにはそのような方が一定割合いらっしゃるようです。


ただ、5,000円前後のセミナーは価格的に良心的であっても、費用対効果が高いとは決して言えません。5,000円前後のセミナーは主に次ぎの3つに大別されます。一つはセミナー講師として駈け出しの方のセミナー。ここは本当に玉石混合で、後に有名になる講師も初期はこれくらいの値段でやっていることも多いです。そのような講師は初期であってもかなり内容がいいので、そこに当たった人は幸運だと言えるでしょう。ただし、すぐに消える講師がその何十倍も多いので、安さにひかれて参加するのは、あまり得策とは言えないでしょう。


次のパターンはバックに高額セミナーが用意されているもの。この十倍から百倍の講座やコンサルなどが控えています。決して内容に手を抜くワケじゃないので、著名講師のセミナーとしては格安ではありますが、人数が多い場合が大半ですので、講師と仲良くなるにはバックのセミナーに申し込む必要はあります。また、著書を持つ講師であれば、1,500円の本に書かれた内容が中心となっています。


三つ目のパターンは主催者の知人で断れないでやるセミナー。これが最もオイシイと言えるでしょう。普段は5万円でやるような内容を、主催者の手前、5,000円でやってしまうもの。典型が「九州ベンチャー大学」で、いつもすごい講師が破格でセミナーをし、さらにDVDまで販売されるというまさに価格破壊。主催者の力で、講師はたまったものじゃないですが、参加者にとってはありがたい限り。当然、このパターンは例外と言っていいでしょう。


ただ、個人的には5,000円のセミナーもいいですが、たまには5万円、50万円のセミナー、講座に参加してみるのも手だと思います。向き不向きや関心もあるので、高額セミナーがすべての人に効果ありとは言えないものの、自分の関心あるテーマならば、絶対に高額セミナーがいいです。講師と仲良くなれるし、大勢の前では決して言わないようなとっておきの情報なども惜しげなく聞けるし、さらに懇親会ではほとんど現金垂れ流し状態の情報が得られたりします。また、同じ参加者の質も極めて高く、お互いメリットのある密度の高い交流が続くことがよくあります。


私は5,000円のセミナーにも参加することはありますが、ベンチャー大学をのぞいて、ほとんど満足したことがありません。しかし、その十倍、百倍のセミナーでは人生を揺るがす体験をし、当然、金銭的なリターンも多く得ているものがほとんどです。


5,000円のセミナーに10回行くお金があったら、私ならば5万円のセミナーに迷わず参加するところです。


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■ネットに存在しないと

こんばんは、行動強化コンサルタントの石田久二です。


とある会社よりセミナー講師を探しているとの相談を受けました。内容的に「女性」でないといけないそうで、私はまず対象外。セミナーの内容に合致する女性講師はいないかとの相談なので、心当たりある人物にあたってみました。


その方のことは、一度名刺交換しただけで思い出したので、それなりのキャラ作りは成功だったのかもしれません。実績もきっとあるのでしょう。しかし、その方及び会社のホームページがないのです。ホームページのない時代はそのまま紹介でOKだったのでしょうが、今の時代、ホームページやブログがないのは、紹介する側としてはちょっと心許なくなります。


その方が本当に実績があったとしても、サイトやブログがない時点でかなり優先順位が下がってしまいます。それよりも、さほど実績がなかったとしても、サイトやブログでプロフィールや人となりが客観的にわかる状態にあるだけで、選ぶ側は優先順位を上げたくなるものです。


今の時代、会社も個人事業主もネット上にいないのは存在しないのと同じと言われます。逆に言うと、仕事を依頼する際は、まずはネットで検索してみるので、そのための対策はしっかりしておく必要があるのです。改めてホームページの大切さを実感した出来事でした。


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