まず著者の写真に驚かされる。それまでテレビ等で見てきたユニークな風貌ではなく、妙にカッコいいのだ。
その実、著者は一年間で50キロの減量に成功し、50キロと言うと大人の女性一人分に相当する。
人が一人いなくなるほどの減量なのだから、見た目も驚くほど変わって当然だ。
もうそこにはヒステリックに喚き散らすデブのオタクではなく、いかにも知的な雰囲気を醸し出している文化人の姿しかない。
実際のダイエットの方法論については第三章以降に登場するが、本書の前半、第一章、第二章が実に面白い。
頭がよくて文章の上手な人が書くダイエット本がこれほど面白いとは、と唸らせる。
第一章は「『見た目主義社会』の到来」。
最終的にはダイエットの効用について書かれるのだが、それを近年日本における価値観の変遷の流れで語られる点が面白く、また、説得力がある。
30年前の日本は「学歴主義社会」だった。つまり人々の判断基準、ファーストラベルは「学歴」にあったのだ。いい会社に入るための第一基準は学歴にあり、また、結婚相手としても高学歴は大きな条件だった(ただし男性の場合)。
その前は「家柄主義社会」にあり、これは江戸時代の士農工商の時代から士族・華族や財閥が幅を利かせる明治後期まで続いたとする。
「学歴主義社会」は比較的長く続いたのだが、それは「バブル経済とITバブル」の到来とともに音をたてて崩れたとする。
一流大学出の一流企業勤めのエリートよりも、ベンチャー企業の方がカッコいいという時代である。確かに女優が選ぶ結婚相手の種類も、バブル期には青年実業家、ITバブル期にはIT社長と変わっていた。
高い学歴よりも、自由な時間や自由な財力を持つ個人の方が魅力的に映るわけだ。そのための必須アイテムとして「ブランド品」が重要視された。つまり「ブランド主義社会」である。
しかしその価値観も長くは続かず、「いま、ここ」の感情が優先される今日、ファーストラベルは「ブランド」ではなくなった。
今ここの感情だけで会社は辞めるし、離婚だってする。そこには家柄、学歴、ブランドなどの客観的基準は鳴りをひそめ、個人のその時の感情、反論を許さない主観こそが説得力を持つ。
そのさい、ファーストラベルとなるものは「見た目」であると著者は言う。
かつては「彼は東大生。でもデブ。ちょっと残念。」だったのが、今では「彼はデブ。東大生なのに。論外。」と価値観が変わっている。経済的自由に裏打ちされた圧倒的なブランド性を誇るホリエモンでさえも、中年太りの偉そうなオッサンで片づけられる時代なのである。
著者は元々は健康のためにダイエットを始めたと言うのだが、結果として、イメージアップや自信の高まりという効用を得たと言う。
まさしく「見た目主義社会」の到来をみなまに経験したからこそであろう。
そして肝心のダイエット方法の話になるが、著者の成功した方法としては、著者の言葉になるが、それを「レコーディングダイエット」と言う。
第二章ではそのダイエット方法がいかに優れているかを、既存の様々なダイエット方法と比較しながら、論じている。
つまり「ダイエット手段の格付け」である。実に15種類もの方法と比較検討しているが、それらのリスク・リターンを一枚の表で表すところなど、著者のオタクぶりが発揮されている。
「レコーディングダイエット」の本質は、とにかく食べた物をすべて記録すると言うものである。それこそポテトチップスの一枚から記録するのである。
最終的には、摂取カロリーを消費カロリーが上回るような生活スタイルに持っていくと言う、極めて真っ当な方法に行きつくのであるが、そこまでにはもちろん段階を踏む。
しかし一貫して変わらないのは、とにかく綿密なまでに食べた物、そしてカロリーを記録していくという点である。
ダイエットのメカニズムとしては、断食や単食ダイエットなどと違い、身体に負担もかからず実に合理的である。
要するにカロリーの摂取を控えて、消費を増やすだけだから。しかしそのプロセスにおいて徹底的な「記録(レコーディング)」が重要となる。
つまりは「オタクのダイエット」と言ってもいい。
これは著者が実際に経験し、しかも劇的な効果を上げている点で説得力がある。
そして本書ではその変遷が実に面白おかしく書かれている。本人は大真面目かもしれないが、読み手にユーモアや笑いを与える点はサスガ。
つまり実用性があるだけでなく、読み物としても面白いのである。
たった700円。これでこれまでのダイエットの失敗を挽回した人も少なくないであろう。
とりわけ、スマートな女性がちょっと痩せる、というものでなく、100キロ級の人がメガトン級に痩せる方法論として極めて有用であると感じた。
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