「マックス・ヴェーバーとアジアの近代化」富永健一著

 マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という有名な論文によると、西欧諸国の近代化の背景には、「宗教改革」によるプロテスタントの興隆がその大きな原動力になっているとする。

 しかし禁欲勤勉を求めたプロテスタンティズムが、なぜ欲望の肥大化を余儀なくされる資本主義を生み出したのか、その逆説を説くのが、ヴェーバーの論点であった。

 端的に言うと、禁欲勤勉を求める、いわゆる「禁欲的プロテスタンティズム」は、快楽的な消費を排除し、勤勉に自らの「職業」に従事することが、生産と貯蓄を生み出し、最終的にはそれが「資本主義」という制度を生み出したとする。

 しかしそうなると、宗教的にはプロテスタントではない「日本」が近代化の過程で西欧に勝るとも劣らない「資本主義」的な発展を遂げたことの説明ができなくなる。

 そのような「難題」に挑むことが本書のテーマである。本書の著者は日本の社会学会の重鎮である富永健一氏。

 富永はまず、パーソンズ流のシステム的手法(AGIL)を援用し、「近代化」を4つの視点から整理する。

 それは「経済的近代化」、「政治的近代化」、「社会的近代化」、「文化的近代化」である。

 これらの4つの「近代化」の帰結を端的に示すとこうなる。

・経済的近代化(A):資本主義の発展と経済成長の実現
・政治的近代化(G):官僚制組織の発展と民主化の実現
・社会的近代化(I):地縁・血縁社会(ゲマインシャフト)の解体による、機能的目的社会(ゲゼルシャフト)の組織化と自由平等な市民社会の実現
・文化的近代化(L):伝統・因習による拘束(魔法の呪縛)からの解放による、思想・宗教・生活様式の合理化

 そもそも「日本の近代化」は明治維新以降の「西欧からの伝播」と理解されてきた。

 実際、ヴェーバーの結論は「日本は資本主義の精神をみずから作り出すことはできなかったとしても、比較的容易に資本主義を外からの完成品として受け取ることができた」としている。

 言い換えると、ヴェーバーは、西欧(つまりプロテスタンティズム)以外は自ら資本主義を作り出すことはできないと考えたのである。

 そこで富永は、外から輸入できる「資本主義」を「制度の資本主義」と定義し、一方で輸入できない内在的な「資本主義」を「精神の資本主義」と定義した。

 上の4つの図式に従うと、確かに日本の近代化とは、その導入の時期に前後はあれど、「経済的近代化」「政治的近代化」「社会的近代化」の導入ことを言う。

 それらはすべて「制度」として、模倣することが可能であった。

 しかし「文化的近代化」については、西欧のプロテスタンティズムに匹敵する精神的原動力(エートス)を持っていたか、または輸入することに成功していたか、と言うことについては否定的である。

 確かにプロテスタンティズムに相当する日本近代化の源流を探ろうとする研究は過去にもあったが(内藤、ベッカー等)、その成果は不十分であることを認めながら、富永は最終的には日本に特殊な資本主義の発展があったことで決着をつける。

 西欧と日本の近代化の過程において、決定的に違う一点があるとすれば、それは西欧が「精神の資本主義」から「制度の資本主義」を発展させたことに対して、日本はまず「制度の資本主義」があり、「精神の資本主義」が遅れたという点である。

 西欧における「精神の資本主義」が生まれた分岐点は言うまでもなく「宗教改革」であり、そこで禁欲勤勉なピューリタリズムに加え、伝統主義の否定、呪術からの解放があった。つまり「精神の合理化」である。

 では日本における「精神の資本主義」「精神の合理化」をいつ起こったかと言うと、富永はそれを「戦後」に求める。とりわけ「呪術からの解放」と言う面において、盲目的に「天皇」を神とあがめる、戦前の全体主義、ここでは「天皇教」と言うが、配線とともに天皇の人間宣言がなされ、「天皇教」の解体がなされた。

 つまりそこで「伝統主義的非合理主義の宗教であった天皇教にとっての、いわば『宗教改革』」が起こったのである。

 しかしここで、天皇に対する忠誠は「企業」への忠誠として置き換えられるとする。

 西欧的資本主義が個人の合理的精神に基づく利潤の最大化、つまり「ホモエコノミクス」の完成であるのに対して、日本の資本主義は企業間競争においては「ホモエコノミクス」ではあれ、そこで働く個人は決してそうではない。

 「過労死」までも受け入れてしまうほどに、非利己的であり、それゆえ合理的な行動様式とは言えない。

 それは「日本的経営」と言う形で「制度化」されるが、これこそが日本に特殊な資本主義の発展であるとする。

 しかしながら、富永の論文はあくまで日本が右肩上がりの成長からバブル期にかけてを対象としているものであり、その限りにおいては、確かに企業への忠誠を軸に、日本経済、日本資本主義は発展していったと言えるが、その忠誠はあくまで「年功序列」と「終身雇用」という「制度」が存在していたからである。

 しかし今は、そのような「制度」を盲目的に信じ込んでいる企業人は極めて少ないと言える。

 そうなると、必然的に企業外市場の発達と、労働人口の個人主義化が進み、日本に特殊な資本主義の形態にも変化が来されることになる。

 むしろ「日本的経営」という制度下における日本特殊的な資本主義は、その「制度」への信頼の元で利己的合理的に動いていた「ホモエコノミクス」そのものであり、その意味で、日本の「特殊性」そのものは相対化されるのではないかと考える。

 確かに西欧と日本の資本主義の発展の相違は「精神の資本主義」と「制度の資本主義」の導入の逆転という点に見られるが、現在において、果たして日本がヴェーバー的な「精神の資本主義」を実現しているかについては、まだまだ議論の余地があろう。

 富永はそれについては、近年の「オウム」などの呪術的新興宗教の展開や「スピリチュアル(とは言ってないが、そのような意味)」の台頭において、真の意味ので「精神の資本主義」が達成されているかどうかについて、疑問を呈している。

 また、本書の本題でもある「アジアの近代化」という文脈において、アジアで近代化を成し得たのは日本だけではない、と言う点に着目している。

 本書は、日本またはアジアの「近代化」において、文化の近代化、つまり「精神の資本主義」が実現したかどうかに論点が貫かれているが、その答えはまだ出ていない。

 しかし「将来」の日本を「見る」上で、このような論点は極めて示唆に富む。

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