「サハラに死す」長尾三郎著

 衝撃的な一冊。数多ある旅行記、冒険記の中で本書は極めて異彩を放っている。

 衝撃性の理由は主人公が旅先で死したことである。

 実際、自転車や徒歩で世界一周する旅人は少なくはない。中には5年も10年もかけて旅をする人間もいる。

 だが、公共交通機関でなく自転車やバイク、ヒッチハイクとなると、それだけ危険も増し、つまりは死の可能性も高くなる。

 しかし中には壮絶な旅をしながらも、生を受けて帰国する人間もおり、その過程は旅行記という形で出版化されるケースも少なくない。

 そしてそのような旅行記に影響されて、追従する若者も多い。

 しかし、表には出ていないが、その何割かは旅先で病気やけが、強盗にあったりして亡くなっている。

 当然、亡くなったものの旅行記は出ることはないし、あったとしてもよほどの特殊事情であろう。

 本書はその特殊事情たるもので、いずれ死する主人公の旅行記は読んでいて切なくなる。

 しかし、このような形で若者の足跡を辿ることができるのは、当人やその家族にとっても本望なのではないかと思い、心を慰めることにしている。

 本書の著者である長尾三郎は、他に冒険家の植村直己(故人)や比叡山の酒井大阿舎梨を取り上げたものがある。

 植村直己は言わずと知れた歴史的な冒険家であり、マッキンレー登頂の知らせを放った後、行方不明になっている。

 酒井大阿舎梨は存命であるが、生涯で二度も壮絶なる千日回峰行を行ったことで有名である。

 いずれも死と隣り合わせの偉業であり、著者はそのような生と死の狭間を彷徨う人物にスポットを当てるのが好きなようだ。

 本書の主人公である上温湯隆は何とラクダ一頭を従えてサハラ砂漠を踏破する冒険に出る。

 本書は主人公の日記と、その他の多くの証言を元に構成される。サハラ砂漠の一番の相手はその自然である。昼は灼熱地獄、夜は冷却地獄。サソリの危険もある。

 食糧や水の配分にも気を配らなければ、文字通り生死を分ける。しかし旅を続ける上で、一番の命綱は相棒のラクダである。

 

 そのラクダ、サーハビーは中盤、死して禿鷹に食われることになる。

 結末を知る読者はここで旅を辞めておけば、生きて日本に帰れたのに、と誰もが思うだろう。しかし、ここで断念するようでは、最初から旅など出ていない。

 私ごとだが、私もかつてヨーロッパを自転車で横断したことがあった。

 アムステルダムの蚤の市で入手した中古の自転車が、その翌日盗難にあい、失意の中、そのオランダのある街からドイツはミュンヘン行きのチケットを買った。

 だが、いざ列車が出る数分前になって、突然、チケットをキャンセルし(キャンセル料を払った)、再び中古の自転車を買い求めたのである。

 自転車とラクダ、ヨーロッパとアフリカでは、その苛酷さが違うが、気持ちは大いにわかる。

 旅に出る人間は途中で旅を辞めることなどできないのだ。

 主人公は言う。

「一つの目標を目指したのに、一度の障害で退却したら、死ぬまで前に現れる数々の困難にたやすくギブアップしてしまう、そういう人間になってしまうだろう。そういう意味で、青春の旅は人生の原点なのだ。」

 一方でこういう言葉にも出会う。旅先で出会ったあるフランス人の言葉だ。

「人生は前身であり、引き返しはしないとナンセンは言ったが、失敗したら恐れず、引き返し、万全の準備を整えて、もう一度前進せよ、それが本当の勇気であり、前進だ。」

 主人公はこの言葉を「前進」への励ましに取るのだが、その言葉を与えたフランス人は果たしてそれを勧めるだろうか。

 私は決してそうではない、と考える。

 後の祭りであるが、ここは一度帰国して、日本国内ですべての準備を整えてから、その気になれば再度挑戦すればいい、という意味でではなかったか。

 それによって、人生にはどうしても今は越えられない壁もあり、そのためには一時の勇気だけでなく、時期を見ることが重要であることを教えるのではないか。

 それが真の意味での「勇気」であり人生の「前進」ではないか。

 しかし旅に急ぐ主人公は間もなくモーリタニアで、新しいラクダを手に入れる。実はここで主人公は心境の変化を訴える。

「こんな旅で命を失うのはバカだ。万一、死んでしまったら、この素晴らしい人生を棒にふってしまう。そのバランスの谷間に、僕は今、立っている。考え方がかなり打算的になったと思う。保守的になった。つまり、年も精神年齢も大人になったのか、僕が軽蔑していたあの大人に!ラクダを買う前の、あの危なっかしい情熱の炎が少し小さくなっているのを、僕は今、正直に認めなければならない。」

 今読むと実に青臭い。

 親から譲り受けた生命への尊重が軽蔑すべき大人の打算なのか。

 この心境が主人公の「生死」を分けたのだと思う。

 実はここで吐露している。彼は学校を中退したことへのコンプレックスを晴らすために旅に出ているのだと。高校を中退せずに人並みに歩いていくことが「小さな人間」なのだろうか。

 「利己的」で、「目先の利益しか考えない独善的で愚かな人間」で、「思いやりのない人間」、「生きる目的を本質的に失ってしまった生ける屍」なのであろうか。

 決してそうであるはずはない。むしろ一度挫折したラクダの旅に執着し、命を粗末に考え、再び旅に出ようなど、その方がはるかに「利己的」である

 そして主人公はサハラに死す。

 主人公と同じく旅を愛する者として、主人公を最後まで応援したい気持ちもあった。

 できればタイトルの「サハラに死す」はフェイクだったと思いたかった。

 しかし今読むと、旅を愛する者として、主人公は単なる利己的なバカに過ぎないことがわかる。

 本書で描かれる主人公はまさしくバカの見本である。命の値段はそんなに安くない。特に親が死ぬまでは。

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