「受け入れる」ってこと

今、ちょっとだけセンチになっています。今しがたミクシィの「共通の知り合いかも」ってコマンドが目に飛び込んできて、何気のそのIDをクリックすると本名が書かれてたので、どなたかすぐにわかりました。
もうここ数年はお会いしていない。10年くらい前は何かと気にかけてもらって、飲みに連れてってもらったこともある。年齢はもう50になるのか。その方には息子さんがいらっしゃいます。以前は何度もお見かけしたのですが、その息子さんは先天的な障害を持っており、しかもその症状は年々重くなる。
お見かけしていた当時、もう5年以上前かな。そう言えば、その子が中学生の年齢になろうって時、塾や制服の業者からDMが届くたび、切なくなるって話を聞きました。うちの子には関係ないのにって。
今、その方のブログを読みました。すでにほとんど自呼吸ができなくなって、喉を切開して呼吸器を付けているとのこと。ウイルスや雑菌があるので外にも出られない。そしてここ数年は手足も動かなくなっている。以前は不自由ながらも、多少は身体を動かしていたのですが。
知り合いから「進行を遅らせることはできないの?」と聞かれて、淡々と「できない」と答えた自分自身に驚いていたようです。
その子が生まれてから20年。もう、普通の人の人生10回分は涙を流したんだと思うのです。20年間、夫婦で協力しながら(ご主人もよく知っている方です)、現代医学では決して治るどころか進行を遅らせることもできない障害と向き合うだけ。
それでも時間が経ち、月は過ぎて行く。幸い私の子どもは元気で、ほとんど苦労をかけることもありません。でも仮に何らかの原因により、苦労をかけるようであったとしても、今と同じように愛すると思うのです。
だけど子どもができる前は、先天的な障害のある子どもを持つことは「大変」なんだろうな~と思っていました。もちろんそうでない子どもよりも大変は大変だと思うのです。だけど子どもに向ける愛がそれで変わるかと言うと、決してそうではない。それは実際に親になって実感できることだし、おそらくその知人のご家族も、大変以上の喜びを感じることもあったのかな。
他人事のように聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。自分のことのように感じます。そのような状況を「受け入れる」ことができるかどうか。以前は考えたと思いますが、今ならば当たり前のように受け入れられるでしょう。
理由は簡単。我が子だから。それ以前に命だから。アナタがアナタである以上の理由はこの世に存在しないのです。
以前、このようにもお話していました。息子が自分より長く生きることはない、と。医学的見地からそれはそうなのかもしれません。だとすれば、一日、いや、一分一秒がこれほど家族にとって尊いことはないでしょう。
同じ一分一秒であっても、その瞬間に対する思いの深さは、決して周囲と同じではない。そして人間の価値は、その瞬間、瞬間をどれだけ生き尽くすかにかかっていると思います。
同じ一分一秒。その瞬間の尊さ。実際、突然の津波で多くの命が失われたことは、決して他人事ではありません。つまり、いつ何時、私自身もどうなるかわからない。決してわからない。だけど、今この瞬間を生きることにおいては、今から50年生きようが、5分後に閉じようが、変わることがありません。
しっかりと生きる。ただ、それだけでいい。それだけがこの地球上の60億の人類に与えられた使命であり価値。その価値は今まさにこの瞬間にある。
今、ふとそんなことを思いました。


カテゴリー: |―くじけそうになったら パーマリンク

「受け入れる」ってこと への2件のフィードバック

  1. SECRET: 0
    PASS:
    受け入れかたを見直してみます。

  2. 石田久二 のコメント:

    SECRET: 0
    PASS:
    >竹内康浩 サラリーマン大家さん
    そうですね!

コメントは停止中です。