引き籠りの時代

お笑い芸人の「なだぎ武」さんが本を出版されたようですが、その中で学生時代の壮絶なイジメの体験を吐露しているとか。それによって人間嫌いに拍車がかかり、親とも顔を合わせないほどに部屋に引きこもっていたとか。

そう言えば今をときめ「千原ジュニア」もものすごい引き籠り経験者。なだぎさんがお笑いを目指したきっかけは「寅さん」の生き方に憧れたから。ジュニアがお笑いを目指したきっかけは、兄セイジに吉本に連れて行かれ、そこで一緒に披露したネタで笑いを取ることができ、そこから目覚めたとか。

「引き籠り」ってのは、確かに世間的にいいイメージを与えないでしょうけど、本人たちはきっと「何か」を狙っているんだと思う。その「何か」が見つけられずに、いわば世間と断絶しながら「瞑想」の状態にあるのでは、と。

それが小さなきっかけでぽーん!と弾けた時、時代を引っ張るかのようなある種の原動力が生みだされる。ですので、「引き籠り」にはそれなりに意義があってそうしているのだし、個人的には積極的に評価したい気もあるんです。

そう言う私も「引き籠り」とまではいかないけど、27歳の時はすべてが嫌になって、6畳の木造アパートで誰とも関わらずにテレビだけ見て過ごした時期がありましたもの。外に出るきっかけとなったのが夕方の再放送の「教師びんびん物語」でした。

あの時代があったからこそ今がある。そう思ってます。


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オーラの見方

実は私、2004年にオーラが見えるようになりました。ただし、オーラを見るなんてのは決して特別なことでもスゴイことでもなく、誰でも簡単に一瞬で見れるようになります。

やり方は簡単。「周辺視野」で見ればそれでOKです。普段私たちは、無意識のうちに「中心視野」にて見たいものだけを見るように習慣づけられています。

例えば相手の顔、胸、足など。。。相手の年齢に関心がある人は手の甲とか首筋を見るようです。これは世界を見る際も同じで、私たちは常に「見たいもの」から見るよう習慣づけられており、それが「自我」の形成に結びついているのです。

そこで「中心視野」から「周辺視野」へと視界を広げると、まさに「ありのまま」が見えるようになり、自然と体の輪郭から出てくるオーラが見えてくるでしょう。とても簡単。

そのようなことをどこかのセミナーでお話して、実際に参加者に見てもらいました。すると全員、「見える」と言ったのですが、中には半信半疑な人も。

つまり、オーラが見えることを特別なことだと思い込んでいると、こんなに簡単に見えることを受け容れたがらないのです。実際、オーラを見るなんて、その程度のこと。その程度のことを過剰に有り難がって特別視するのも変な風潮です。

ただ、周辺視野で物事を見る習慣がついてくると、世の中の見方がどんどん変化してきて、その究極が「悟り」に至るのです。

これは音楽でも同じこと。私たちは音楽を聴く際、例えばボーカルとかメロディとか、「聴きたい音」を中心に聴いてしまいます。クラシックでも、例えばヴァイオリン協奏曲の場合、ヴァイオリン独奏にばかり耳がいってしまいますが、オーケストラの中のヴィオラパートがあってこそその協奏曲が成り立つのです。

ですので、正しく音楽を聴く場合も「中心聴覚」ではなく「周辺聴覚」で聴くことが重要。その聴き方を突き詰めると、例えばモーツァルトの交響曲第41番ハ長調K511の終楽章にて「宇宙」を見ることさえ可能になるのです。

今後、私のセミナーの中でも、一部そのようなワークを取り入れていきたいと思います。


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伊達直人

現在、全国各地で「伊達直人(タイガーマスク)」が出現しているようです。主に児童施設へのランドセル寄贈や寄付をもっぱら匿名で行う動きです。

伊達直人とは言うまでもなく、梶原一騎原作の漫画「タイガーマスク」の主人公であり、大よそ次のようなストーリーです。

戦後孤児として施設で生活していた少年伊達直人は、ある日、動物園で「虎」を見て、その足で施設を脱走し、「虎の穴」と呼ばれる悪役レスラー養成所にとらえられます。そして成人になるまでその養成所で過酷なトレーニングを受け、「タイガーマスク」という悪役レスラーとして活動を始めるのですが、ファイトマネーのほとんどを「虎の穴」に納める必要があります。

最初の頃は言われる通りに納めていたのですが、少年時代に生活していた施設「ちびっこハウス」が悪い人に騙され、子どもたちが離散してしまうところ、その借金を肩代わりしたことでファイトマネーを納めることができなくなりました。

それは「虎の穴」に反駁することとみなされ、伊達直人は処罰として「虎の穴」から命を狙われるようになり、リング上でおとし前をつけるべく、凶悪レスラーたちが次々と直人の前に立ちはだかる。数々の死闘を演じ勝利するわけですが、ファイトマネーは相変わらず「ちびっこハウス」に寄付をし続けます。

「ちびっこハウス」にもたびたび顔を直人ですが、そこではお金持ちの坊ちゃんが親の遺産で遊んで暮らしている青年として、子どもたちからは「きざにいちゃん」と呼ばれ、バカにされつつも愛すべき青年を演じています。

ちなみに「タイガーマスク」は漫画とアニメがあるのですが、こればかりはアニメの方が100倍面白いです。特に最終回は、漫画があっさりと交通事故で死んで終わるのに対し、アニメでは「虎の穴」の首謀と殺し合いの試合を果たし、最後はマスクをはぎ取られながらも死闘を繰り広げる姿に涙を誘います。

それはともかくとして、昨今の「伊達直人」の動きは喜ばしいと同時に、いよいよ時代がやってきたとの興奮さえ覚えます。つまりまずは日本人から、純粋利他的な「愛」の精神が広がり、日本中を感動の渦に包み込むことで、人類全体の「霊性」を向上させるための動きが始まっているのではないかと。

いよいよ本当の意味での人類の「アセンション」が始まった。いよいよ始まったのです。


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ハイヤーセルフの正体

先日、「モノリスワーク」という人気セミナーを主催されている鈴木ケイスケさんとお話する機会がありました。と言っても、セミナーに参加した懇親会の席でのことですが。懇親会ではオフレコトークが多いため、気をつけてブログに書く必要がありますが、これだけは言っておいた方がいいと思っています。


それは「ハイヤーセルフの正体」について。ハイヤーセルフについて「宇宙となかよし」にも何度も書いているのですが(詳しくは「宇宙となかよし ハイヤーセルフ」で検索を)、実はハイヤーセルフに関して、私とケイスケさんの考え方が、そのまま同じであることを知り、激しく意気投合したのです。


しばしばスピリチュアル業界では「ハイヤーセルフ」というと、神様、仏様、守護霊様、天使様のように、なにか人間を超越した「実体としての存在」と解釈されている傾向がままあるようです。


そして「ハイヤーセルフとつながる」というと、それら超越的な存在が、さも目の前に現れたり、または耳元で囁いたりなど、すべからく「自己と異なる超越者」からのご神託を頂くような誤解が広がっているようです。


イメージとしては「アラジンと魔法のランプ」の出てくるジニーさんのように、何でも願いを叶えてくれる魔法の存在のごとく。しかし言うまでもなく、ハイヤーセルフとはそのようなファンタジックな存在ではありません。


ケイスケさんがおっしゃるには、ハイヤーセルフとは「直感やインスピレーション」のこと、であると。まさにその通り。激しく共感です。


つまりハイヤーセルフとは文字通り「超越した『自己』」のことであり、決して自己と切り離された実体ではない。そしてそれは私たちが普段から聞いている、ふとしたはずみの「直感・インスピレーション」のことなのです。


そしてその「直感・インスピレーション」は、しばしばリラックスしている時に聞くことができます。例えば何気なく散歩してる時、お風呂に入って寛いでいる時、トイレで用を足している時、仲間と楽しくお酒を飲んでいる時、など。


その声はしばしば唐突にやってきます。スピ系セミナーなどで「今からハイヤーセルフとつながります」などと大それたセッティングがなくとも、リラックス状態において唐突にやってくるのです。例えば「あ、あれしなきゃ!」などと思い出すような感覚がそうです。


ようするに「ハイヤーセルフ」と厳かにネーミングされていますが、決して特別なことではなく、普段から聞いてる声なのです。ハイヤーセルフに対してファンタジックに特別視している限りは、決してその声を受け取ることはできないでしょう。


普段から聞いている、内側からの唐突な声。その声に敏感になり、その声の通りに従うことで、必ずや人生は加速していくことでしょう。


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アンカリングの本質

NLP(神経言語プログラム)のスキル一つに「アンカリング」なるものがあります。NLPの代表的スキルと言えますが、実際、日本NLPの大御所である北岡泰典氏もNLPは「アンカリングに始まりアンカリングに終わる」と言われています。私もそう考えています。

NLPでいう「アンカリング」の手法としては、オーソドックスには以下のような手順を取ります。

1.何かリソースフルな状況を一つ選ぶ

2.その状況を五感(VAK)でありありとイメージングする

3.十分にその状況になりきることができた時、身体に特定の刺激を与える→アンカリング

  (耳たぶをつねる、親指と中指で輪をつくる、など)

4.アンカリングをしながら、リソースフルな状況をありありと体感する

5.アンカリングをほどき、ブレークステートする

  (体感を解除するために別のことを考えるなど)

6.再びアンカリングをして、リソースフルな状況が蘇るかチェックする

7.蘇ってきたらアンカリング成功


アンカリングは他にも多くのバリエーションがありますが、ようするに特定の「刺激」と特定の「反応」を結び付け、「パブロフの犬」の状態を作ること。実際にやってみると意外と簡単なことがわかるでしょう。

ただ、上のワークでは意図的に「アンカリング」をしましたが、もっと重要なことは、私たちは生まれてから知らず知らずのうちに「アンカリング」がされている事実に気が付くことです。

例えば道を歩いていると、ふと昔付き合っていた彼女がつけていた香水に香りを感じ、即座に付き合っていた当時のことを思い出されたり。その当時によく聞いていた音楽が突然なりだした時も当時のことをすぐに思い出すことができるでしょう。

そして、実際はそのようなライトなものから、さらにトラウマと呼ばれるようなヘビーなところまで、私たちは無数のアンカリングに支配されているわけです。その無数のアンカリングのことを、一般に「プログラミング」と呼び、私たちは常にそのプログラムにコントロールされています。

上手くいくのもプログラム通りだし、その逆もしかり。NLPの目的の一つがまさに「うまくいかないプログラム」を「うまくいくプログラム」へと書き換えること。例えば「人前であがる」というプログラムを「人前で堂々としている」というプログラムに書き換えるなど。

確かにNLPを効果的に用いれば、まさにコンピューターのプログラムを組み直すがごとく、効果的なパフォーマンスを生むことができます。

しかし、私はもっと大切なことがあると考えています。それは「アンカリング」によってプログラムを書き換えることではなく、むしろ自然とインストールされた「アンカリング」を除去し、一定のプログラムから解放されることです。

その方法の一つが、例えば「瞑想」であったりすのですが、いずれにせよ私たちは無数の「アンカリング(プログラム)」に支配されており、そのプログラムから解放されることが、今この文章を読んでいる人にとっての人生の課題であると言えるでしょう。そのやり方は追々ご紹介したいと思います。


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