■冗談抜きで運をよくする方法

こんばんは、石田久二です。
私の嫁(ツレ)の話なんですが、私自身もなかなかのものと思いながら、ツレの「願望実現力」の高さには目をみはるものがあります。私が知る限り、ツレが願ったもので叶わなかったケースはただの一度もないと記憶しています。
もちろんそんなに大それた願望でなにこともあるのでしょうが、それでもこんなにもたくさん、それもスムーズに実現するのはやっぱり「何かある」と思わざるを得ません。ちなみに叶った願望と言えば、、、「結婚式を一番いい会場でする」「給料・ボーナスに恵まれる」「いきたい旅行先にすぐに行ける」「子どもを授かる」「家族が健康である」など些細なことではありますが、それでもすごいです。また、ものすごい「晴れ女」です。
なぜにここまで実現するのか。私なりに観察して出した結論をお話したいと思います。それは、、、
「他人(友達)の幸せを普通に願っている」
ことではないかと。「幸せになりたければまずは他人の幸せを願え」ってのは、ある種の成功哲学・自己啓発ではよく耳にする法則です。「与えると得られる」などもそう。
だけどどうでしょう、、、そんなに簡単ではないんじゃないでしょうか。この法則を聞いたから、「では、他人の幸せを願います」と言ったところで、そもそもの「心根」が大切ではないかと。
以前、こんなことがありました。しばしばアメリカの成功哲学で「収入を10%を寄付する」なる法則が語られます。ある時、私のこの法則を逆手にとって、もしかしたら「寄付した額の10倍の収入が得られる」のでは、との仮説を立ててみました。
2007年1月のことだったと思います。その月、奮発して5万円をあるNPO法人に寄付してみました。すると、、、その月の収入は50万円を超えてしまったのです。あまりに見事な法則だったわけで、そのことをブログに書きました。
つまり「収入の10%を寄付すればいいように、寄付した額の10倍が収入になる」と。その直後、ある人からご連絡を頂きました。私のブログを前々からよく読んで頂いている方でした。その方いわく、
「自分は借金の返済などがあり、本業とは別に月々5万円のアルバイトをしている。今月はバイト代をすべて寄付したいと思います」
との内容。これを読んで、正直、「あちゃ~」と思いました。いわゆる「法則」を信じるのは勝手ですが、そもそもの心根を見ると、その人はようするに「得たいから与える」であって、実のところ何も法則通りではなかったのです。
「与えると得られる」のセオリーは文字通り、最初に「与える」こと。「得るために与える」では決してないのです。ちなみにその方はその後、どうなったかわかりませんが、法則通りに50万円の収入が入ってきたとの報告は聞いていません。
話を戻しますが、ツレを見ていると、どうやら本気で友達の幸せを願っているようなのです。毎年、結婚記念日には「夫婦(家族)の願い」って儀式をしています。家族に関する願いを10項目書いて、それを翌年の結婚記念日まで封印する、、、という儀式です。
ちなみにそれは翌年には7割が叶っており、2~3年後にはほぼ10割が叶ってします、ものすごい儀式です。ツレはなんと、その項目の中に必ず友達の幸せに関する願いを書いているのです。友達が結婚する、子どもが授かる、など。
ここでの願いには、決して「自分が幸せになりたいから他人の幸せを願う」なる心根はありません。純粋にそう願っている。そしてつい先日、二人の友達の結婚が決まったと嬉しそうに言ってきました。そう言えば、その二人の結婚についても、例の10項目の中にあったな~と思い出しました。
ごく自然に他人の幸せを願うことができる。これなんだと思います。


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■「障害のある人には優しくしよう」

コピペより。

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607 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 12:19:04.60 ID:dgtnE454
小学生の頃の授業参観が
「福祉社会について書いた作文を読む」
(もっと簡単な言い方だったと思うが、趣旨は同じ)という内容だった。
担任は「障害のある人には優しくしよう」みたいな作文を期待してたんだと思うが、
私達はクラスメイト全員で事前に示し合わせて
「クラスのAちゃんは、先生にひいきされるのを嫌がっています。
先生は『障害のある人には優しくしろ』と言うけど、先生はAちゃんが嫌な事をしていいんでしょうか」
「Aちゃんは本が好きで休み時間も本を読みたいのに、
一人で本を読んでいると、仲間外れだと思われて
僕達が先生に怒られるので、学校で本が読めなくて困るそうです」
こんな感じの作文を書いて、途中で担任がヒス起こしても保護者がざわついても勝手に次々と読み上げた。
最終的にAちゃん本人が
「私は耳が不自由だけど、友達も沢山いて学校も楽しいので全然困りません。
それなのに、先生が私だけ特別扱いしてきます。
先生がいると、私は普通じゃないんだと思ってしまって悲しいです」
と読み上げたあたりで、担任が泣きながら教室から逃亡して授業が中断した。
Aちゃんは学期途中で親の仕事の都合で転入してきた子で、先天性の軽い難聴。
補聴器を付ければ支障は無いし、少し内気だけど頭が良くていい子なので誰も仲間外れになんかしてなかったのだが、
「障害者に優しい自分が大好き」な思想の担任が間違った方向に一人で突っ走っており、
小学生ながらに気持ち悪かったし、Aちゃんも皆もわりと本気で迷惑していた。
直談判しても、一方的に私達が悪者扱いされて一蹴された為の計画だった。
担任は辞めたのか知らんが、それ以降学校に来なかった。
AちゃんとAちゃん親には、校長から謝罪があったらしい。
Aちゃん親は後に学校に来て
「あなた達みたいな子達がAの友達で嬉しい」
と私達を褒めてくれ、気恥ずかしさで皆ニヤニヤしてた。
まだ「逆差別」って言葉が無かった頃の、クラス全員の武勇伝。
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これ読んでいろいろ思い出すことがありました。私も小学生の頃、同じクラスに身体障害者がいました(この時点で「障害」じゃなくて「障がい」または「障碍」って書け、などのツッコミはなしね)。生まれつき足が育たない障害で車いすと杖での生活。軽い脳の障害もあったようです。U君とします。

私はなぜか彼とは6年間同じクラス。高学年時のクラブも一緒(リコーダークラブ)。その間、担任の先生も変わっていったけど、今でも思い出すのが5年の時のM先生。女性。当時はたぶん20代後半。今のオレよりずっと下やん。

そしてもう一人思い出すのが4年と6年の時のS先生。おじさん。後に校長になる。そのS先生はそれはそれは人格者風で父兄からの信頼も厚かったように思います。話とか面白いし、基本的に優しいので、担任になって喜んでいました。

だけど、時々、それこそ烈火のごとく怒るときがあって、それがU君をいじめた時。もう、問答無用にどなり散らし、殴りたくり。だけど、私は殴られたことがなくて、実は後からわかったのだけど、殴られる人は決まっていました。それは「親の職業」とかなり関係があったのですが、それはさておき。

私もU君にはいろいろちょっかいかけたり、文句言ったりしたこともあります。だけどそれは、、、彼が障害者だからではなく、そもそもおかしなことを言ってたから。普通に考えて変なこともかなり言ってたのです。例えば自分は障害があるのだから、周りは言うことを聞いて当たり前、、、みたいな態度を露骨に取るわけで。今なら私も大人なので、それなりに対応できると思うのですが、当時はそんなこと関係ない。

障害のない人からされて嫌なことは、障害がある人からされても嫌。障害あるなしではなく、普通のクラスメートとして普段から接していたし、だからこそ普通に向き合ってきた。だけど、ちょっとでもU君が泣いたりすると、S先生は問答無用で生徒をどなり散らして中心人物を次々と張り手。だけど、親の職業には配慮して(この辺はかなり特殊な環境なので説明が難しいのですが、いわゆる宗教法人関係でして、教団サイドの子どもには手を出さないことが徹底されていました。あとは同僚の子どもとか)。

ま、S先生の言うことも一理あるので、私たちはある程度、反省して、、、でも同じことを繰り返していました。それが4年の時。5年になると担任がM先生に変わります。ちょっと怖い先生でした。だけどすべての人に平等でした。U君がまたいじめられても、まずはいじめた子たちを叱るのですが、きちんと話を聞いて、その上で「U君だって悪いことしたんじゃん」って認めてくれるのです。

その時、私は忘れもしません。U君が微笑んだのです。これは後からの作り話ではなく、小学生ながらに敏感に感じ取ったこと。U君はいわゆる「絶対弱者」みたいな立場なので、ケンカとかイジメとか完全にタブー。だけど、M先生はU君の悪いところもちゃんと認めて、それを指摘した。その時、U君は微笑んだ。今思うと、U君は「特別扱い」が嫌だったのかもしれない。自分は何やっても許される立場。そんな時別扱いが嫌だったのかもしれません。

そう言えば一度、M先生から本気で怒られたことがありました。いつものように、U君に意地悪をしていたのです。家庭科の調理実習の時間。その時、教科のF先生が私たちを見ていて、目があった瞬間、私だけ意地悪を止めました。でも、そのまんま。

F先生からM先生に報告がいき、私たちはU君をのぞいて全員放課後残されて説教です。確かにあの時の意地悪は陰険だったので、私も悪いことしてる自覚がありました。その時、皆の前でなぜか私ばかり怒るのです。他の意地悪に参加してた人はあまり怒らず、私だけ集中して怒るのです。後から言われたのは、「石田君はわかっててやったのが許せない」ってこと。なんか強く堪えました、あの時は。

雪が降った日がありました。M先生が「雪合戦に行こう」と言ってクラスが盛り上がります。U君も一緒に喜んでいます。だけど、、、U君だけクラスでお留守番。バカな小学生のこと。そんな時、U君が的になるのはわかっています。せっかくの楽しい雪合戦が、一部のバカな小学生のために台無しにされる恐れがある。きっとM先生も「雪合戦しよう」って言った瞬間、「あっちゃ~」と思ったに違いありません。U君への配慮がなかったと。でも、言ってしまった手前、するしかありません。U君を留守番にしたのは担任として仕方ないこと。

とりあえずU君を残して外に出ます。するとM先生は雪合戦をしながら、雪だるまを作り始めたのです。10分ほどして切り上げたのですが、M先生の手には雪だるまがありました。「せんせい、それなに~」って誰かが聞いた時、「U君へのお土産」と一言。その瞬間、バカ小学生の私は、「M先生、本気でええ先生やんけ!」と思いました。

今考えると、S先生は表向きはよかったけど、大人の論理に毒されたクソでしたが、M先生はたぶん、オレ達と一緒に悩んで頑張ってきたんだな~と。私が10歳の時に20代後半だったから、今は50代半ばくらいかな。結婚と共に退職したのだけど、今どうしてるのかな~って時々思い出すことがあります。


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■親に頼らず他人に頼れ?

こんにちは、石田久二です。
大阪セミナー後、期間が空きましたが今日からまたこっちも更新していきますね。
ところで先日、大阪に規制している時、母親から面白い話を聞きました。ある同級生の話なんですが、その親の教育方針について。どうやらその親は子に対して「親に頼らず他人に頼れ」なる主張をしていたそうです。それも中学高校生くらいの時期から。
「親に頼らず他人に頼れ」
確かにこれは社会人としてまっとうな意見です。だけど、これをまだ社会に出ていない高校生に言うのはどうか、、、という母親の意見ですが、それは賛成。
もちろん子どもの資質にもよりますが、私は親から次のようなことを言われてきました。
「最後にどうしようもなくなったら親に頼れ」
多くの人は、友達に迷惑をかけることはあっても、親にだけは迷惑をかけたくないと思うもの。正直、親に頼るってのは文字通り「最後の手段」だと思うのです。さんざん脛をかじってきた私が言うのもなんですが。でもどうだろう。今、もしもお金が必要になったとして、手元にないとなると、、、親とサラ金とどっちを選ぶだろうか。
今の私には判断できませんが、私の友人には実際に「サラ金」に借りた人がいました。10万円程度でしたが、確かにその程度なら私もそうするかもしれません。つまり、親に頼るってのは、すなわち「親に心配かける」ってことにつながるわけです。
10万円程度で親に心配かけるくらいなら、2万の利息を払ってでもそれを回避したいと思うの人は決して少なくないでしょう。だけど、、、本当に最後の最後にどうしようもなくなった時、、、「最後の砦」があるってだけでも安心できます。
よく保険のことを「セーフティネット」と呼ぶことがありますが、特に社会保険の場合、その意味するところは「弱者救済」ではなく、実のところ「強者救済」なのです。つまり保護を前提として張っているのではなく、落ちても安心なように大胆に経済活動をせよ、、、との意味があるのです。
「親に頼らず他人に頼れ」
「最後にどうしようもなくなったら親に頼れ」
という相反する二つの言葉ですが、どちらの方が子どもは大胆になれるでしょうか。言うまでもなく後者だと私は思います。そして実際、そのように今でも思っているところがあるので、フリーランスでも大胆にやっていけてる気がします。


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■レトリーバルの話

こんばんは、石田久二です。
最近、「体外離脱するサラリーマン」の著者である、とみなが夢駆さんとお知り合いになってから、再びヘミシンクへの関心が高まってきました。

体外離脱するサラリーマン―ヘミシンクで“誰でもできる”不思議体験/とみなが 夢駆

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ヘミシンクについては、私的には極めてまっとうな技術であり、大いに活用する価値があると思っています。ただ、見たところ、どうしても「オカルト」的な説明が散見され、その点は確かにオカルト市場では有利に働くのでしょうが、いわゆる一般の人の間ではマイナスの反応を呼び起こすのではと思われます。


あくまで私の理解の範囲ですが、ヘミシンクとは一言で言うと、「ただのヒーリングミュージック」です。ステレオの左右に微妙に違った周波数で音を出す「バイノーラルビート」についても、今ではたくさんのCDで活用されています。


ただ、ヘミシンクがそのようなヒーリングCDを異なる点は、やはり臨床データの大きさでしょうか。そもそも東洋の宗教音楽等に用いられた、ガムラン、ディジュリドウ、インド音楽、チベット密教から、最近ではクリスタルボールなど、聞き手をトランス(変性意識)の状態に導く音楽は、伝統的に活用されてきました。


ヘミシンクはそのような伝統的な音響効果を「科学的」に再現するすることに成功した音源であり、そのための理論構築はもちろんのこと、理論に基づいた、たくさんの臨床データの積み重ねとその効果こそが、他のヒーリングCDとは一線を画するところなのでしょう。


例えばヘミシンクで用いられる「フォーカス」のレベルなども、大乗仏教等で確認される「末那識」「阿頼耶識」「阿摩羅識」などにマッピングできると考えられるわけです。ただ「阿頼耶識」などに入るにはあくまで各人の修行のレベルといった曖昧な基準にしか頼れなかったのを、ヘミシンクの場合はより科学的、再現的にそれを担保した点が画期的だと言えるでしょう。


そのように、ある程度、ヘミシンクについて理解を進めて行くと、オカルト扱いされるのがもったいないほどの技術なのですが、ただ、私の中でも一つだけ腑に落ちない点があったのです。いや、正確に言うと、いくつかあるのですが、まずはこの点だけはどうしても理解に苦しむものでした。


それは何かと言うと「レトリーバル」という概念です。


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■瞬時に洋画を字幕なしで見る方法

こんばんは、石田久二です。
今日は「瞬時に洋画を字幕なしで見る方法」についてです。ただし、、、この言い方はかなり大げさな気もするのですが、この方法を実践すると、確かに「英語」に対するストレスが軽減されるような気がします。
この方法を私に教えてくれたのは、河合塾という予備校で浪人をしている時、英語の講義を担当されていた石丸裕高氏でした。石丸氏は主に東大京大阪大クラスの、割と偏差値の高い講義を担当されていました。私はそれよりワンランク下の国公立文系クラスでした。
ただ、石丸氏はあまり英語の授業をしませんでした。もっぱらメンタルな話が多く、特に当時は聞いたこともない「キネシオロジー」なる方法を活用していました。実際、石丸氏の英語講習には「キネシオロジー英作文」や「瞑想英文解釈」などの名前が付けられていました。
とにかく英語の授業もせずに怪しい話とワークばかりするのですが、河合塾を卒業してから知り合った同志社大学の女性は「石丸氏のおかげで英語がしゃべれるようになった」と豪語していました。実はその女性とは一緒にインドに行きました。と言っても、男2、女2のグループでしたが。
誤解を招かないように言うと、そもそも同じ河合塾にいた男友達と二人でインドに行くはずだったのです。ですが、そいつの友達である女二人が「わたしらもインド行く~」とか言いだして、会ったこともない二人といきなり行くことになったのです。
その辺は今のQ州ツアーやインドツアーにも受け継がれてるような。会ったことない人同士がいきなり数日間を共にするわけですから。ちなみに当時、その女二人にはそれぞれ彼氏がいて、男二人には彼女がいませんでした。ただ、その女二人は下痢の話ばかりするので、色気もなにもありませんでしたけど。
それはともかく、その女のうち一人は私とは違うクラスで石丸氏から英語を習っており、インドでは確かに英語ペラペラでした。ただ、よくよく聞いてみると単語をひたすら並べてるだけのようなめちゃくちゃな会話。それでも普通に通じてるのです。そしてヒアリングもなぜか問題なし。
彼女いわく、「石丸先生のおかげで英語のストレスが取れたからや~」とのこと。曲がりなりにも中学から6年間以上、英語の勉強をしてきて、一通りの文法はもちろん、相当数のボキャブラリーも得ているはずなのです。おそらくネイティブの小学生以上には単語は知ってるはずです。
つまりそれだけの文法力やボキャブラリーがあるにも関わらず英語をしゃべれないのはおかしいと石丸氏は言うのです。その原因はどこにあるのか。それがまさに英語に対するストレスだったのです。となると、そのストレスを取れば英語は大丈夫。
そんな理屈で英語を教え、そして実際に成績アップしてるから驚きです。ただ、石丸氏が担当していたのはそもそも偏差値の高いクラスだったため基礎学力はある。そこでストレスを取り除けば面白いように成績が上がるのも頷けます。ですので、基礎学力のない人にはあまり通じない方法かもしれません。
で、いろんな方法を教えてもらったのですが、その一つに「瞬時に洋画を字幕なしで見る方法」ってのがありました。実はこの方法は英語だけでなく、あらゆるストレスにも対応できるとのこと。本当に一瞬でできます。
その方法とは、、、続きます


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