■悪しき楽観主義

おはようございます、行動強化コンサルタントの石田久二です。
最近、35歳以上の独身者が結婚する可能性は3%であるという記事を読みました。
35歳過ぎると結婚はほぼ不可能 できたのは「男性で3% 女性で2%」
国勢調査のデータが根拠であるとは言え、私の周囲には35歳以上で結婚する人が普通にたくさんいますので、実感論としてはあまりピンときません。ここには結婚願望のない人も含まれるし、いろいろなファクターを考慮すると、「35歳以上の結婚を望んでいる人が結婚することはほぼ不可能」なる言い方は必ずしも適切ではないと思います。
しかし、独身年齢が上がるにつれ、その後の結婚が難しくなることはデータ上も明らかであり、どのような解釈を挟もうと楽観できる状況でないことは明白です。また、20代で生涯年収の9割が決まってしまうなどの本もあり、それもある程度信頼できるデータを元に算出している以上、無視できない分析だとは思います。
そのように、いろいろな解釈が許されるにせよ、数字というデータは単なる推測や妄想なんかより、はるかに信頼できる「予測」であると言えます。もちろんデータは絶対ではありません。例外も当然あります。しかし仮に「成功できる確率は10%」というデータが出てきたら、それは10人に一人しか成功できないことを意味します。
昔何度か行ったことのあるネットワークビジネスの説明会などでは、スピーカーはしきりに「誰でも成功できる」を連呼します。しかし実際にネットワークビジネスでそれなりの所得を得る確率は約3%と聞いたことがあります。確かに自分がその3%の中に入る可能性はあれど、スピーカーの言う「誰でも」は完全なウソです。
しかし多くの人間は、「自分だけは例外である」と考える癖があります。20代で年収の9割が決まると言われても、自分だけは例外であり、いつか何かが起って逆転できる。根拠のない自信と言えば聞こえがいいですが、残念ながら何もせずして逆転はまずないと考えた方がいい。しかしそれでも自分だけは特別であり、突然、何か奇跡が起って逆転できるんだ。そう思い込もうとする人は非常に多い。
私はそれを「悪しき楽観主義」と呼んでいます。自分だけは、自分だけは、自分だけは、、、と考えたくなりますが、何かで「10%」なる数値が出てたとすれば、その「自分だけ」に当たるのも10%です。自分だけはと考える9割が外れることになる。それがデータの示す事実です。
しかし逆にいえば、10%と言われて、10人が「自分だけは『何もせずに』逆転できる」と考えているのであれば、『何もせずに』を取っ払ってしまい、「何かする1人」になればいいのです。つまり、すればいのです。すれば10%の中に入れる可能性が上がるのです。
35歳以上で結婚できる確率は3%。結婚願望のある人に限ればもっと増えるとは思いますが、それでもせいぜい10%前後といったところでしょうか。しかし何もせずとも、赤い糸で結ばれた運命の人がやってくると信じている人が9割だとすれば、残り一割の「何かする人」なればいいのです。
「何もせずとも自分だけは例外である」が「悪しき楽観主義」だとすれば、「何かすれば例外になるものだ」と考えて実行している人を、「意味ある楽観主義」だと対比することができるでしょう。
数字はウソをつきません。自分だけは例外であると全員が思ったとしても、全員が例外になることは絶対にありません。それが数字の誠実さです。しかし、例外になる方法があるのだとすれば、それをきちんと実行すれば必ずその例外に入れる。それもまた数字の誠実さと言えるでしょう。
どちらを選ぶかだけが、自分に与えられた選択肢なのです。


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■瞑想のスタート

こんばんは、石田久二です。


最近、早起きして瞑想する習慣が付いています。今年に入って早起きが苦じゃならなくなっています。朝5時に起きて、その静寂の時間にする瞑想。これはなんとも気持ちの良い時間です。


ところで、しばしば「瞑想」について質問を受けることがあります。まず、私が「瞑想」をしているか否かについて。これはまず「YES」と言えるのですが、だからと言って何か特別な方法があるわけじゃありません。マントラも唱えませんし、梵字を見ながらするわけでもありません。


せいぜい、結跏趺坐で座る程度で、胡坐や椅子のこともよくあります。目は瞑っている時もあれば、半分開けている時もある。つまり、決まった形なく、やりたいようにやってるだけです。そして、それでいいと思っています。ただ、寝てしまう可能性があるので、横にならないようにはしていますが、それもまた瞑想だとの認識があります。


サッカー選手の長谷部誠さんは、著書の「心を整える」の中で、毎晩、寝る前に30分ぼんやりと横になる習慣があると書いています。何も考えないのでもなく、考えるのでもなく。ただ、右から左に受けながす。視線はただ天井を見ているだけ。それもまた瞑想だと思います。

心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣/長谷部誠

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かつて、ビジネスマンを中心に「TM瞑想」という瞑想法が流行りました。もちろん今でも実践されています。ここで興味深いのが、それが「ビジネスマン中心」ということ。そして決して安価でないにもかかわらず、受講者は非常に多かった。それだけの評判があるということは、実際に効果があるからだと考えていいと思います。


では、どんな効果か。それは、直接的にビジネス上の効果。私の知人にも、TM瞑想や独自の瞑想など、普段の生活に瞑想を取り入れている人がいます。その方々は、私の目からは、とてもビジネスがうまく行っているように見えます。


では、なぜ瞑想をするとビジネスがうまくいくのでしょうか。それは一言で言うと「バランス」だから。ビジネスをしていると、どうしてもいろんな問題に直面します。そして頭がグチャグチャになります。そんな時、一日30分でも、何もしない時間を積極的に取ることは、脳を休め、冷静になる上で極めて効果的。ゆえに、瞑想がビジネスに効果的となるのです。


一方、ビジネスをしていない人にとって瞑想とはどのようなものか。おそらくビジネスマンほどの顕著な効果は見られないと思いますが、それでも瞑想の習慣を持つことは悪いことではありません。しかし、時として瞑想が逆効果になる場合もあります。


それは、瞑想をすれば何か「特別な存在」になれると思っているケース。巷では、瞑想によって悟るだの、インスピレーションが研ぎ澄まされるだの、クンダリーニが上昇するだの、様々な説が流布されています。そして、どれも正しいこととは思いますが、実のところ、それはあくまで結果論でしかありません。


「悟り」とは何か。それは「差取り」の当て字のごとく、世の中をありのままに見て、いかなるものにも優先順位を付けない状態。「自我」とは、自分が見たいもの、優先したいものと定義されることがありますが、その意味で言うと、「悟り」とは「自我」が限りなく沈黙した状態と言えるでしょう。


ですので、「悟り」という状態を目指すとは、その状態を目的とする、優先順位を付けることとなり、「悟り」とは矛盾した状態が常にはらんでいることになります。「特別な存在」になろうとすることも同様。そうなりたいと思うのはまさに「自我」の働き。「自我」を沈黙させて「特別な存在」になろうと、「自我」が欲するという、非常に滑稽な状態が見られるのです。


その意味では私がやっている「滝行」も似たようなもの。今まで何人もの人を滝行へとご縁を結んだことがあります、一年以上続く人は非常にまれ。なぜなら、「滝行」をしたいと思う人も多くもまた、「特別な存在」になることを目指しているから。しかし「滝行」ではその目的は叶いません。それがわかると来なくなる。


「瞑想」によって悟り、そして特別な存在になる。まずはその考えがどこかにあるのだとすれば、それを認めること。そして「特別な存在」に「なる」のではなく、そもそも自分は「特別な存在」であることからスタートする。それが本当の意味での「瞑想」のスタートとなるのです。


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■あるがまま(外編)

こんにちは、行動強化コンサルタントの石田久二です。
精神世界の本などには、しばしば「あるがまま」であることが力説されています。これには二つの方向が示されます。一つは「外」に対する「あるがまま」であり、もう一つが「内」に対する「あるがまま」です。
まず「外」に対することとしては、この世の中を一切に価値判断を挟まずに見る、ことを意味します。例えば「雨が降っている」という事実に対し、多くの人は「鬱陶しいな」とか「イヤだな~」とか、逆に「落ちつけていい」などの判断を挟みながら、雨に接しています。
しかし、「あるがまま」の世界では、「雨が降っている」は「雨が降っている」以上のでも以下でもなく、ただ、その事実があるだけ。「お金がない」なる現象も同じで、多くの人は「ないと困る」と判断してしまいます。確かに現実生活ではそのケースが強そうですが、実際にはなきゃないでやってる人もたくさんいます。
また、「お金がない」と言っても、本当に一銭もないケースは稀であり、多くは程度問題。貯金が100万円を切ると、夜も眠れないほど心配する人もいれば、100万円貯めて達成感を抱く人もいます。さらには、貯金がゼロでもまったく意に介さない人もいる。つまり人それぞれ。
さらに言うと、本当にすべての財産を失っても、「これでお終い」と思う人もいれば、「ここがスタート」と思う人もいます。すべては価値観。その価値観を外すと、現象はすべて無色透明で、これが「あるがまま」の本質です。
しばしば「リフレーミング」という名のスキルで、マイナスの価値観をプラスに言い換えましょう、考え直しましょう、なるワークが紹介されますが、正直なところ、マイナスをそのままプラスに言い換えるのは、単なる言葉遊びのようにならなくもない。植え付けられたマイナスの価値観はなかなか治らないもの。
ですので、よりよい人生を送るためには、まずはすべての「現象」には価値がなく無色透明であることを「知識」として知ることからスタートします。そしてその「現象」を知らずに貼り付けた「価値観」を静かに傍観してみる。そのトレーニングができると、そのうち、どんなことがあっても動じない、つまり「あるがまま」に物事を見ることができるようになります。
プラスへのリフレーミングをそれからのこと。「あるがまま」の真実に立脚した上で、「いずれにしても無色透明だけど、プラスとマイナスでは、とりあえずプラスに考えた方が役に立つこと多いから、じゃあ、プラスに価値判断しましょ~」と自分の意思でコントロールする。
それが本当の意味での「自由」ってやつです。


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■結界の作法

おはようございます、行動強化コンサルタントの石田久二です。
昨日、一週間の滝行を満行したのですが、その時、滝行の導師に一つ注意を受けました。滝に入る際、必ず「作法」を行って入るのですが、一番最初にするのが結界を張ること。今から滝に入るのに、様々な浮遊物(いわゆる霊など)が近寄ってこれなくする作法です。
結界を張る上で、最も使用するのが「塩」です。場を浄化するのに「盛り塩」をしたり、相撲を取る前に塩をまくのもそうです。招かざる客を厄介払いする時も塩をまくことがあります。私の知り合いの営業マンで、断られた後、塩までまかれたって人がいましたが、同情したくなるものの、疫病神のような雰囲気で訪問するとそんなこともあるでしょう。
滝に入る前も塩をまきます。そして滝の前で柏手を7回打ちます。柏手(かしわで)とは一回にパチパチと二回拍手すること。滝に入る前は、左から右へと、パチパチ、パチパチ、パチパチ、パチパチ、パチパチ、パチパチ、パチパチと手を鳴らします。
しかし、今までの習性なのか、一番右まで行った後、そのまま中央に手を戻してしまっていました。ここでは右まで行った後、その場で手をほどくべきだったのです。これには理由があります。柏手を打つことで、神様(仏様)に目覚めて頂くわけですが、左から右へと柏手を打つのは、扉を開くのと同じことだそうです。最後まで開いて手をほどかずに中央に持ってくると、扉を閉めることになるそうです。
塩をまくときも同じ。左から右へとまくのが一般的ですが、手に余った塩をそのまま右から左へまきなおす人がいますが、これも同様、扉を開けて良からぬものを招き入れることになるそうです。
どんなことでも「作法」は師匠・導師の言うことが絶対です。そこには理屈はありません。私がやっている滝行も、きちんとした僧籍を持つ天台修験の導師の元で行っています。つまり密教です。密教の基本は口伝。ですので、本来はブログなどに書くべきじゃないと思うのですが、この辺りは一般的な話でもあるのでよしとされましょう。ただし、本当に大切なことはこっそりと伝えられるものであり、それはいかなる人にも他言は禁じられます。ブログにも書きません。
私はあくまで在家であり、その意味で素人です。ですが、やるからにはきちんとしたルールの元でやることが大切。その意味では、導師の言葉は絶対であり、素直に従うことが何よりも大切なのです。でも、これはどんな世界でも同じですよね。まずは師匠の言うことを忠実に守る。守破離の「守」です。滝行に関しては、私はまだまだ「守」の段階ですね。


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■運気を逃す言葉

こんにちは、行動強化コンサルタントの石田久二です。


一つ前のエントリーは、今から書くことの導入部でした。一例として軽く書くつもりが、軽く書ける内容ではなかったので記事を分けることにしました。


「脳は何かと言い訳する」ということですが、これまで何度も言ってきたように、「言い訳」は成長や成功を妨げる一番の元凶です。「言い訳」の多い人に成功はありません。その「言い訳」の中でも、私がしばしば耳にする言葉があります。


精神世界、スピリチュアルに関心のある人は、「すべては上手くいっている」という言葉を聞いたことがあるはずです。私もその言葉自体には同意、共感します。すべては学びであり気づき。成長の糧。そしてそもそも人生に無駄なことは一つもない。起ることが起き、それはすべて必然的な流れにおいて起っていること。


これが世の中の真実です。しかし、今から書くことは、言葉の上ではちょっと矛盾するように聞こえるかもしれません。タイトルの通り、「運気を逃す言葉」がそれであり、「言い訳」の代表格と言えるでしょう。正確に言うと、スピリチュアリストにおける「言い訳」の代表格。それが、

「今は時期じゃなかった」

です。例えば何かをやりたい、どこかに行きたい、誰かに会いたい、何かが欲しい、などの願望があったとします。一応のところ願ってはみるものの、それが叶わないことだってあります。そんな時、この言葉が出てきます。「今は時期じゃなかった」、と。


確かにそうかもしれません。宇宙レベルにおける大いなる意思の元では、すべて決まっていること。しかし、そのことを「言い訳」に使うべきではありません。できなかった、行けなかった、会えなかった、得られなかった、そして失敗した。そこには普通に考えられる理由があるはずです。


そもそもそれらの願望を叶えるために、その人は行動したのでしょうか。努力したのでしょうか。できることをすべてしたのでしょうか。後悔のないほどにしたのでしょうか。いやあ、してないでしょ。もししていたら、「時期じゃなかった」などの「言い訳」は出るはずがありません。やることやったこと、その事実に対して自分を誇りに思うはず。


脳は何かと言い訳をする。つまり実現できなかった、達成できなかった、そのストレスを軽減するために、脳は何かと「言い訳」を用意してきます。そんな時、「言い訳」の巨大データベースとも言えよう、スピリチュアルな格言は、ストレス軽減のための絶好の材料となります。


その代表がまさに「今は時期じゃない」です。ならば、いつなら時期なのか。時期なんてのは、何もせずにやってくるわけじゃありません。時期は自らつかむのです。何かに失敗するたびに「時期じゃなかった」と言い訳する人生ってどうなんでしょう。失敗の度にその言い訳を繰り返すだけ。そんな人生でいいのでしょうか。


「言い訳」するのは、脳のメカニズムがそうさせています。しかし、私たちはそのメカニズムに打ち勝つ意思と力を持っています。脳にコントロールされるだけの人生。それで本当にいいのでしょうか。「運気」は自ら引き寄せるもの。それもまた言葉ひとつなのです。


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