「LOVE & FREE 世界の路上に落ちていた言葉」高橋歩著

 著者である高橋歩氏と私は歳にして同級生である。

 だからこそ親しみを覚える反面、彼の生き方にはちょっとジェラシーも感じる。

 元ヤンキーが大学中退してバーを開き、その後、自伝を出すために出版社を設立。

 その後、出版社を手放して結婚した彼女と世界一周旅行。

 本書はその旅行中に書いたと思われるエッセイ&写真集である。

 高橋歩は今は沖縄に居を移しながらも、本を書けば飛ぶように売れ、各地を講演で回り、まさしく好きなことをして生きている。

 本書「LOVE & FREE」は高橋歩という名を世に知らしめた作品ということになろうか。

 オーストラリアを皮切りに、アジア、ユーラシア、ヨーロッパ、アフリカ、中南米と世界中を余すところなく旅し、その旅上(路上)で感じたようなことが、モノクロの写真とポエムのような文章で綴られている。

 全編を通して、読んでてむず痒くなってくる。

 しかし活字を読まない若者にとっては、これくらいの方がストレートに響くし、それでいて妙に「カツジヲヨンデイマス」的な気分にさせて自分を誇らしく思う瞬間に出会えるのかもしれない。

 活字を比較的読むようになっている私は、本書をいく年も前に買ったのだが、今だにブックオフに持っていかずに、時々は開くようになっている。

 そして読む度になんだかやる気になってくる。

 高橋歩のことは嫌いだし、会いたいとも思わないが、それでも読むと心が動く。

 そんな自分が嫌いで好きだけど悔しくはない。

 あ~旅に出たいな~。。。

LOVE&FREE―世界の路上に落ちていた言葉/高橋 歩
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潜在意識の性質(3)~極めて素直~

潜在意識の性質(1)~安心・安全を求めている~

潜在意識の性質(2)~もしかしてバカ?~

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「潜在意識」は「安心・安全」を求めている。

その「安心・安全」を求める機能が、私たちの現実の根源となっているのです。

つまり、潜在意識の立場からすると、

「これは安心・安全だからOK」


「これは危険だからNG」

という、極端な二者択一で、物事を判断しているわけです。

高所恐怖症の例でいえば、

「高いところから落ちた(小さい頃にお父さんから落とされるなど)」


→「高いところは危険」(一般化)


→「すべての高いところは危険」 ⇒ 「高所恐怖症がプログラミング」


→「高いところに立つと身がすくみ、そこから離れたくなる」 = 「潜在意識が高いところから守っている」

となるのです。

それは逆もまたしかり。

私ごとですが、私は現在、一歳になる長男がおり、昼間は保育園に預けています。

保育園は楽しく行っていながらも、夕方にお迎えに行くと、可愛いことに満面の笑顔で飛びついてきます

これもまさに「潜在意識」のメカニズムそのものであり、この時期の幼児にとって、両親とは何よりも安心・安全な存在であるゆえに、いわば潜在意識がお迎えの親の元へと駆け寄らせていると言えるでしょう。

ついでに言うと、最近、こんなことがありました。

保育園は土曜日も預けられるのですが、ここのところ毎週、土曜日になると熱を出し、保育園を休んでしまいます。平日は元気に行っているのに。

これまた、潜在意識の側面から説明が可能となります。

幼児にとって、最も安心を与えてくれるのは母親の存在です。

この一年間、一緒にいた期間が最も長く、おっぱいから抱っこから、まさに生命の安全を守ってきました。

この点では、父親はどんなに頑張っても母親にはかないません。

それだけに、子どもはできるだけ母親と一緒にいたいのです。

そんな私の妻(子どもの母親)ですが、平日は会社で働いているのですが、土曜日は休みで、できるだけ家のことを済ませたり、ゆっくりと休息をとるために、基本的に子どもを保育園に預けるようにしています。

最初の頃はそうでした。

しかし、先ほど言ったように、ここ最近はずっと発熱で土曜日だけ保育園を休みます。

潜在意識的な解釈をすると、つまり、

「母親と一緒にいたい」


→「平日は会社があるから無理だけど、土曜日は会社が休み」


→「でも、土曜日も保育園だけど、熱を出せば一緒にいれる」

という意思によって、子ども自ら発熱をしていることになります。

潜在意識はまさに「安心・安全」を求めんがために、「熱」という現象を引き起こすことで、その要求を満たしているのです。

同じようなことはおそらく子どもが大きくなってからも起こるし、実は大人だってそうかもしれません。

子どもは学校で嫌なことがあると、口に出して言わずとも、発熱や腹痛などの症状で、学校を避けようとします。

大人だって、会社や仕事のことを考えるだけで、胃が痛くなったりすることがあるでしょう。

これらはすべて、自分に対して「危険」なものを避けようとして、身体的な反応(熱や腹痛)を引き起こしているのです。

つまりは、潜在意識の意図を知るには、考えるよりも「身体」に聞く方がいいのかもしれません。

身体に何らかの変化があると、それは「潜在意識」が何らかのうったえを起こしている。

潜在意識はそれだけ「素直」なのです。


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「必ず売るための『究極の説得』の秘密」大友義隆著

 本書については殊のほか、思い入れが強い。
 
 私の人生を変えた、と言っても過言ではない、伝説の人物に関する本であるからだ。

 私はまだその「伝説の人物」に直接会ったことはない。その人物が開く社内研修のビデオで姿を見るだけである。しかもその録画は劣悪。研修の内容ではなく、映りが劣悪ということ。それでもその内容、その中の人物のパワーには驚かされる。

 その「伝説の人物」とは、謎のスーパー営業マン、加賀田晃氏のことである。本書は加賀田氏の社内研修の模様を正確に描写したものである。

 加賀田晃氏のことを簡単に紹介すると、中学校を中退後、様々な職歴を経て23歳でセールスの世界に入る。

 現在は主として企業向けに営業研修業を行っているが、それまでの間、17社の会社を渡り歩き、そのすべてにおいてトップの成績であった。

 一番最初の会社は防犯ベルの飛び込み営業。初日にして100%の成約。ある教材販売のセールスでは99%以上の成約率

 大阪で北海道の土地(原野)を売る飛び込み営業においては、会ったその日に現金を貰うまでの過酷な営業を、なんと80%の成約率で成し遂げていたとか。

 また、住宅販売においては、20人以上の営業マンが2年間で3棟しか売れなかったものを、残りの27棟を「たった一人で、たった一ヶ月で」売り切ってしまった。

 しかもそれは冷やかしも含めた、たった29人のお客を相手にしてである。

 通常、3%の成約率があればそこそこの営業マン。

 10%もあればスーパー営業マンと言われるのだが、加賀田氏の場合は、とにかくその数字が桁外れである。そして今もなお、現役の営業マンであると言う。

 加賀田氏をして「営業」とは何かと聞くと、それは「誘導の芸術」であると言う。

 それは決して騙したり脅したりして強引に売り付けるものでもなく、または低姿勢に懇願して買って頂くやり方でもなく、とにかく、営業のプロセスで相手を「買いたくてたまらない」という状況にまで誘導することであると言う。

 言い換えると「無」と「否」を「有」に変える芸術であると言う。

 さらに加賀田氏のすごいところが、本人だけでなく、加賀田氏の所属するグループ、部下までもが例外なく売上が倍増し、また、加賀田氏の研修を受けた営業マンやその会社までも目を見張るような成果を獲得するという点である。

 営業とは決して「天賦の才」ではなく、その「セオリー」さえ身につければ、概ね一ヶ月、遅くとも二ヶ月もあれば間違いなくプロになれるものだと言う。

 本書はその営業研修のライブ収録である。

 本書は大きく「哲学編」「セオリー編」「話し方編」「抵抗解決編」「礼儀編」「極意編」に章が分けられている。

 「哲学編」では「セールスとは何ぞや?」を語り、「セオリー編」では実際の現場におけるアプローチからクロージングまでの方法論について説明する。

 「話し方編」ではセールスの基本となる、文字通り「話し方」の実際、「抵抗解決編」ではセールス現場で必然的に生じる「抵抗」を切り返すテクニックについて。

 「礼儀編」では扉の開け閉めから、挨拶、座り方に至るまでの「べくべからず」を説く。

 そして最後の「極意編」ではまさしくセールスの極意。その極意とは3つ。

 それは「愛対意識」と「当然意識」と「不諦意識」である。

 その3つの極意について、加賀田氏の実際の体験を交えながら力説する。

 まず「愛対意識」とは相手をとことん「好き」になって接すること。

 「当然意識」とは文字通り、当然のように振る舞うこと、相手が当然買うものだと思って振る舞うことである。

 最後の「不諦意識」とは決して諦めないこと。この話がすごい。まさしく「営業の鬼」を感じさせるエピソードが紹介されている。

 本書はよくありがちな精神論でもなく、使えないテクニックの羅列集でもない。

 まさしくプロのセールスマンになるための具体的な「実用書」である。

 そして私も「実用」している。世の中には数多くのプロと呼ばれるセールスマンがおり、その何人かはご丁寧にもそのノウハウを著書などで紹介してくれている。中にはそれで有名になっている人もいる。

 しかし、加賀田氏はそのいずれと比べても間違いなく段違いの凄さである。このような人物が存在するなどにわかに信じられない。

 余談であるが、私はまだ加賀田氏には直接会ったことがないが(注:この後に実際に研修を受けることができた)、氏の研修を受けたことがある人と話たことがある。

 いわく、氏の研修を受けた途端に、その会社の売り上げは瞬く間に上昇し、その研修にはまり込んでしまった社員は、すごい勢いで実績を出し、出世街道を走るようになったのだと言う。

 伝説は決して誇張ではなさそうだ。本書はまさしく「営業の聖書」である。

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「スピリチュアリズム」苫米地英人著

 オウム真理教の脱洗脳で有名な苫米地英人氏が「スピリチュアル」について語る。苫米地氏は直近では脳科学アプローチによる「能力開発」に関する著書を中心に出してきたが、本書はそれらとはやや異色で、氏の名を著名にした「洗脳」への色合いが強い。そして同時に、いわゆるマスコミ批判か。現在、空前のブームと言われる「スピリチュアル」を斬る。

 「現在、日本は空前のスピリチュアル・ブームで、代表的人物は江原啓之氏です」、といきなりの名指しにてスタート。現在、江原氏を批判する雑誌記事が出始めているが、その大半は本質を理解した上での批判とは思えない、と前置きをしながら、苫米地氏の本質を突いたスピリチュアル論への期待が高まる。そして江原氏に対する本書の立場はこれ以上にない程の、けちょんけちょん、である。

 一言で言うと、江原啓之とは「催眠にかかりやすい自分探し君」と、それが江原氏の本質であると語る。江原氏はもともと20人もの霊能者を渡り歩いて人生の意味を解明しようとしたらしいが、それ自体がすでに単なる「自分探し」であり、最終的に傾倒した英国スピリチュアリスト協会では、9回の渡英で実際の交霊を見ることになり、そこで一つの目覚めに達したと書かれる。そもそも普通は目に見えないものが見えるということ自体、単に変性意識(トランス)に入りやすいことの証であり、そういった点で、江原氏のことを「催眠にかかりやすい自分探し君」と結論付ける。

 江原氏が拠り所としているものの一つに「シルバーバーチの霊訓」があるが、そこでは、アプリオリに「永遠の魂(アートマン)」なる存在があり、その「魂をレベルアップ」していくことが人間の使命であると説かれる。苫米地氏はこの教義自体、バラモンやヒンズーなどの原始宗教と同じであることを看破し、江原氏の説く「スピリチュアル」もつまりは原始宗教の単なる焼き直しであると指摘する。

 しかし江原氏の学びのレベルは原始宗教の巨大な体系から見るとまだまだ入門編の域を出ておらず、それがある意味、幸いであるとする。現在の浅薄な学びのレベルでは芸能人相手に御託を説く程度で済んでいるが、この先、より学びを深めることで、最終的には「オウム真理教」の境地に行きつくであろうと予測する。

 そもそも「オウム真理教」の教義そのものはチベット密教原理主義のそれと同じであり、チベット密教はバラモンやヒンズーなど原始宗教の復活であると言う。そして、原始宗教及びチベット密教はシルバーバーチと同様、アプリオリな「永遠なる魂(アートマン)」と「輪廻転生(生まれ変わり)」を協議の根本とする

 言うまでもなく世界三大宗教である仏教(釈迦)は「アートマン(空・無ではなく実体としての)」を批判することから始まり、キリスト教及びイスラム教は「輪廻転生」を批判している。それ自体が正しいか否かを論証する術はないが、世界三大宗教が批判するには、それなりの理由があるからと見るのが妥当であろう。

 従って、現在(日本)の「スピリチュアル」とは、世界三大宗教が批判するところの原始宗教及びシルバーバーチと同一視してもよく、それが発展した形が「オウム真理教」であると指摘する。その論拠を少し詳しく説明すると、まず「アートマン」と「輪廻転生」が結びつくと、そこには「絶対差別」なるものが生じることになる。魂は生まれ変わることによって磨かれ進化する。その進化の過程こそが、人間そして魂の存在意義であるとする。となると、まだ磨かれていない魂はそれだけ低いレベルであり、人間としてのレベルも低いとみなされる。

 そこにカースト制度が正当化されるそもそもの根拠があり、現世において一生懸命努力をすれば(魂を磨けば)、来世には上のカーストに生まれ変わることもできる。となると、「オウム真理教」の「ポア(殺人)」の背景には、まさしく殺してあげることが、その人の魂を上昇させる最良の手段であり、ここにオウムの犯した大量無差別殺人という犯罪が成立する。

 このように現在の「スピリチュアル(江原氏の説く)」には、その根底に「絶対差別」があり、それは「魂のレベル」という言葉によって言い換えられているに過ぎない。

 苫米地氏が指摘するように、江原氏がまだ入門編の今ならば社会的な害悪は少ないが、この先、学びを深め、そしてテレビに出続けるに従って、麻原と同じことを言い出すかも知れない、というのは極論に聞こえるかもしれないが、マスコミと視聴者を取り巻く現在のムーブメント全体を俯瞰すると、無視できるものではないと感じる。

 また、昨今、スピリチュアルの分野でしばしば「アセンション」という言葉が聞かれる。アセンションとはここでは「魂の昇華」のことを言い、2012年を境に、アセンションで生き残れる者とそうでない者とに分けられると言われている。これを「絶対差別」と言わずしてなんと言うのだろうか。さらに言えば、いわゆるスピリチュアル教を信じる者は救われるし、そうでない者は滅びるともされる。これを「危険思想」と言わずしてなんと言うのだろうか。

 本書が発売された2007年8月当時は、まだまだ江原氏の番組は堂々と表を向いていたが、2008年2月現在、江原氏の能力への疑問や番組自体の社会的悪影響が表面化しつつあり、そろそろ本格的な放送規制が敷かれようとしている。

 元はと言えば、この種の番組は公共の電波で流すべきものではなく、放送倫理規程にも明らかに反している。スピリチュアル・ブームが巻き起こる以前は、オウムによる一連の犯罪問題によって、少しでもそれの援護に繋がるような、いわゆるオカルト番組は自主規制されていた。

 しかしながら、オウム問題もほとぼりが覚め、元々「数字になる」とされるこの種の話は、江原啓之という人の良さそうなおじさんと、スピリチュアルという耳障りのいい言葉に取って代わられ登場したというのが、現在のスピリチュアル・ブームの背景であり本質である。

 本書では江原啓之だけでなく、中沢新一やその他のオカルト、似非科学に対しても鋭く矛先が向けられているが、それらとマスコミが手を組むことによる社会的害悪への警鐘として、大きな意義はあると考えられる。確かに苫米地氏の語り口には、時には論理性を欠き、それが事実なのか推測なのかわからないような記述も散見されるが、もともと「洗脳」を専門とし、オウム事件の際に一定の役割を果たしたという事実からも、本書には看過できない説得性があると思われる。

 最後に蛇足であるが、江原氏のカウンセリング(霊視)のやり方は、現在催眠療法の創始者であり「天才」と名高いミルトン・エリクソンの亜流に過ぎないという記述は非常に興味深いと感じた。なぜなら江原氏が影響を受けたイギリスのスピリチュアリストはミルトン・エリクソンの自然主義催眠に強い影響を受けており、江原氏はそれを無意識的にも用いているだけなのだとする。だからこそ霊視されているタレントさんは彼の前で泣きだしたり、尋常でない反応をしたりする。確かにこれは典型的な催眠状態であると見ることができる。非常に興味深い指摘である。

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「旅行記でめぐる世界」前川健一著

 旅行作家、前川健一氏による新書。前川氏は単行本及び文庫本にて比較的軽いタッチの著作を数多く持つ。本書は戦後から現在に至るまでの日本人の海外旅行の変遷を「旅行記」を通じて綴ったもの。その視点は大きなバックパックを背負いながら安宿を泊まり歩く、いわゆるバックパッカーとして。日本円がまだ一ドル300円の時代からそのスタイルで世界を渡り歩き、そして無類の活字中毒と自称する前川氏ならではの快作である。
 今となっては海外旅行など何の珍しくもなく、10代の若者であってもある程度アルバイトで資金を貯めて簡単に行くことができる。そして良くも悪くも、文章さえ上手であれば、ある程度の旅行記は書けるし、うまくいけば出版さえも可能である(売れる売れないは別として)。
 しかし本書が対象としている戦後しばらくは自由旅行が制限されており、また、日本円の安さもあり、海外旅行できるのは極めて特権的な立場にいる者に限られていた。政府関係者であったり、新聞記者であったり、芸能人であったり、または留学生であったり。その時代の希少な資料を発掘(?)し、半世紀の歴史における当時の日本の状況を推し測ることができるのはありがたい。
 前川氏のスタイルから言えば、この時代の海外旅行を語る上で絶対的な影響下にあるのが小田実の「何でも見てやろう」であることは言うまでもないが、当然ながら、その本には現在、つまり21世紀という視点はないし、そもそも不可能である。従って当時の「一ドル」が一体どれくらいの価値があるのかについて、現代的な視点からは読みにくい。
 そこを「若いサラリーマンの一日の生活費に相当」としながらも「アジアでもかなりきつかった」と説明する。小田の膨大な文章でも見えてこなかった当時のリアリティへの不明確さが、この数行で解決する。そこで初めて「何でも見てやろう」の大変さを追体験できるというものだ。さらにまた小田は書いていないと認めながらも、「小田にとって生涯最初で最後の海外旅行であると思っていたはずだ」という記述は、当時の海外旅行事情を認識するに十分な推測であり、見事な行間読みであると思う。
 このように本書はまさしく現代の旅行者及び読み手のささやかかつ重要な疑問に答えながら、海外旅行自由化という大きな転換点、日本円の競争力増大、そして幾多の旅行ブームの変遷を「旅行記」という一貫した資料の中から読み解いていく、一種の日本人論であり日本文化論であるとも言える
 一方で紹介されている旅行記の中から面白そうに感じたものを読み進めていくという、単純な旅行記ガイドとしても十分に読める。あとがきで選定基準を「私好み」としながらも、そう言えるには玉石混合の莫大な旅行記のおよそすべてに目を通していることがうかがえるし、だからこそ単なる「私好み」が歴史を語る上での説得性と普遍性を感じさせるのであろう。


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