遠隔ヒーリング

しばしばスピリチュアル系のイベントとして「遠隔ヒーリング」や「遠隔ディクシャ」なるものが開催されます。と言いながらも、私は参加したこともないので、それがどんなものかはよく知りません。


しかし、私なりの「遠隔ヒーリング」はいつも心がけています。私は毎日、朝夕と息子の保育園の送迎をしています。その時、同じクラスの園児たちとも会うのですが、いつも抱っこをせがまれるほど人気者になっています。特には抱っこの奪い合いになることもしばしば。その中に息子も入っていますが。


どんな相手であろうと、親近感を得る、信頼感を得るための基本は、相手に「安心感」を与えること。それは大人で子どもでも赤ちゃんでも同じこと。では、どうすれば相手に「安心感」を与えることができるのか。そのための方法は数えきれないほどありますが、その基本中の基本は、相手をしっかり守ってあげるように接すること。


その最たる方法が「ハグ」であると考えています。ですので、保育園の園児たちは抱っこ(ハグ)をしてくれる人に対して心を開き寄ってくるわけですが、園児ならともかく、大人に対してはなかなか難しいし、実際にやって犯罪者扱いされることだってあるでしょう。


そんな時はバーチャルにハグをしてあげればいいのです。例えば電車の中で向こう側に知らない女性(男性)が座っていたとします。その人に対して突然ハグをすれば、通報される可能性が高いです(男性→女性の場合)。


そんな時、実際に触るのではなく、自分の手が相手の身体にグーンと伸びるイメージをして、そこでハグをしてあげればいいのです。そしてそのイメージが実際の手触りと感じるぐらいまでに、しっかりとハグをしてあげること(ただし、イメージの世界からは逸脱しないように)。


その際、相手をじろじろ見るまでもなく、単にイメージだけでハグをする。そしてその練習をしていると、ある時、妙な親近感をお互いに感じる瞬間があるでしょう。それがラポールなのです。


そしてこの延長上に「遠隔ヒーリング」があります。直接的なヒーリングにおいてもラポールがすべてです。安心感を感じさせない相手から癒されることは決してありません。まずは相手を守ってあげるように、イメージでハグをして、それからヒーリングをする。


それが私にとっての「遠隔ヒーリング」なのです。これを延長させれば、もしかしたら数万キロ離れた外国の友達に対しても遠隔ヒーリングができるかもしれません。ただし、何度も言うように、相手を「守る」ことが大切。


ラポールを築いて操作してやろうとか、自分のものにしてやろう、などと思ってしまえば、それは相手の潜在意識にも伝わりますので、その時点でラポールは途切れてしまいます。なぜなら操作されることは危険だから。


ともかく、これはいつどこでも練習できるラポール構築法ですので、とりあえず身近な人であれ、知らない人であれ、実践してみると確かな実感を得られることでしょう。


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学び上手・学び下手

昨日、金スマに接遇講師の平林都氏が出ていました。体育会系の厳しい口調で、社員を徹底的に絞り上げるシーンはお茶の間でもお馴染になっていると思います。私は一日に数回はアマゾンの書籍ランキングを見ているのですが、突然、順位が上がるのはたいていがテレビの影響。

ですので、この放送で平林氏の本も大幅にランクアップしているかと思い見てみると、ベストセラーになって久しいためか、さほど上がるわけでもなく、それでも最初のページ(20位以内)には入っていました。さすがはテレビです。

それはともかく改めて平林氏の本のアマゾンレビューを見ると、酷評するレビューが意外と多いことに気が付きました。私は読んだわけではありませんが、平林氏のウリはあくまでリアルな研修にあるのであって、それを文字化すると、その真意が通じにくいのは仕方のないこと。

確かに本は本としての評価があり、その上で率直なレビューをしたのかもしれませんが、この手の話でいつも疑問に思うことがあります。

それは、なぜに接遇のプロ(に限らず、プロ全般)に対して、素人が知ったような口調で批判できるのでしょうか、ということ。単なる個人の好き嫌いであればともかく、例えば「儀礼的に歯をむき出して作る笑顔には魅力を感じません」と書いてあったりしますが、それで効果が出ているのであれば、それに従う方が得策だと思うのです。

ここに学び上手と学び下手が分かれると思います。例えばコミュニケーションセミナーなどでいつも出てくるスキルに「ミラーリング」なるものがありますが、それは相手の動作はさりげなく真似して親近感を得るための方法。

これは確かに下手な人がやればわざとらしいだけで逆効果な場合もあるのですが、セミナーで学びに来ているのであれば、まずはきちんと練習をすることが重要。その上で、「実践では使えない」と判断するのであれば、それはそれでいいです。

しかし実践以前のワークの段階で「これはわざとらしいので効果がない」と言っておろそかにしてしまうのは、どう考えてもその人の学び下手を主張しているようにしか聞こえないのです。

「ミラーリング」なるスキルがあって、それは多くの人が「効果がある」と経験上もわかっているからワークするのであって、それを無視して自己流にこだわるような人は、成長の望みが薄いと言わざるを得ない。

その道のプロが「歯を見せろ」と言うのであれば、まずは歯を見せて笑顔を作ること。それに徹すること。講師に反発することがセミナーの目的ではないはず。本を読んでも、出版物として世に出ている以上、必ず学びことが一つでもあるはず。単に自分と合わない個所を見つけて公の場で批判するのは、そのレビュアーの態度を疑ってしまいます。

まずは「素直」になること。これが学び上手の鉄則であり、成長する人間の特徴だと思うのです。そしてその逆もまたしかり。


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熟女について

「アメトーーク」という番組が好きで毎週録画して見ています。先日は「女の子大好き芸人」でしたが、そこに登場していた「ピース綾部」が最近面白いと思っていますし、実際、テレビでの露出も劇的に増えてきています。

その綾部が登場した回で「熟女芸人」なるテーマもありましたが、よくよく考えてみると、今では完全に「熟女」なるジャンルも市民権を得ています。「熟女」がどの年齢層を指すかははっきりしませんが、30歳を超えたら「熟女」と言っても許されるのが、主にAVの世界だと思います。

私はその昔、まだ10代か20代前半の頃、「30代はあり得ん」と思ってましたし、ましてや40歳とかそれ以上になると完全に「マニア」の世界だと思っていました。仮に「熟女」が40歳前後を指すのだとすれば、それは「SM」や「スカトロ」、「ゲイ」などと同じく、極めて限定された愛好家のみをターゲットにしたものと感じていました。

そもそもAVの世界ってのもその時々にスターがいて、私が中学の頃は小林ひとみ、大学の頃は桜木ルイなどが代表。それ以降はあまりAVに関心がなくなっていて、最近ではどうなんでしょう。探偵ナイトスクープにも登場していた蒼井そらなどは、あまり生々しさを感じさせないアンドロイドのように感じてしまいます。

正直なところ、桜木ルイなどは当時の私たちにとって完全に「性(主にオ〇〇ー)」の対象であったのが、最近のAVタレントは「匂い」を感じさせない単なる時代のアイコン(記号)として消費されてる過ぎない、、、と感じるのは、私がもはやそれらを興味の対象としていないからだからなのでしょうか。

それに対して「熟女」という響きには、最近のAVタレントにはないプンプンたる匂い(香り)が感じられます。そしてそこには私たちの性の中枢に直結するような誘因性があるように感じます。

「アメトーーク」という番組を支えている大衆感情は言うまでもなく「共感」です。「キン肉マン芸人」などは、そのテーマだけで一時間番組が成り立ってしまうほど、その世代(1970年代生まれのジャンプ黄金時代の世代)の共感をつかんでいるわけです。

同じように「熟女芸人」が成り立つのも、そこに共感する人たちが多いから。間違っても「老女芸人」などはテーマにならないでしょう(ピース綾部はいけるのでしょうが)。「熟女」などは以前は完全にマニアの世界だと思っていたのが、今では堂々たる市民権を獲得している。

ただそれは、人口比の大きな団塊ジュニア世代(1970年代前半)の人たちが、「熟女」と呼ばれる人たちと年齢層が重なったからに過ぎないとの見方もできます。実際、私自身も、、、今では熟女OKであり(老女はNG)、逆に平成生まれなどにはほとんど触手が動かなくなってしまいました。AKB48なんかも完全にアンドロイド集団です。

要するに何が言いたいのかと言うと、単に「熟女」って言葉を出したかっただけなのかもしれません。あしからず。はい。


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モノ・サービス提供者にとってのご法度

私は現在、セミナーやコーチングを中心に生業としているのですが、私の中で決めた絶対のルールがあります。それはセミナー・コーチング業に限らず、モノやサービスを提供する側のすべてに当てはまるルールだと思っています。

それは「値下げをしない」というルール。ただ、今はデフレ状態なので、モノによっては市場価格に合わせて値下げせざるを得ない場合もあるでしょうが、固有の「ブランド」を売っていく場合、値下げは絶対的なご法度だと感じています。

それは自分自身のブランド価値を下げることを意味すると同時に、サービスを受ける側に対しても失礼な行為だと思うのです。例えば3万円で受講したことのあるセミナーがあって、それはそれだけの価値があると判断して参加したもの。なのにその後に同じ内容のものが2万円に下がっていたりなんかすると、3万円で受講した人は損した気分になる以前、自分自身の着眼力を疑うことにもつながります。

ですので、セミナーやコーチングであれば参加者、その他のサービスであれば購入者のレベルを維持する上でも、提供者は何があっても値下げをしてはならないのです。逆に値上げする分にはいいと思いますし、そうしていくことがプロとしての使命だと私は思っています。

ちなみにコーチング業に入ろうとされる方の中には、自分自身の評価も何もない状態から、単に相場だけを意識して、バカ高いフィーを設定している人が少なくないようです。言うまでもなく、それでは続きません。特別な人を除いては、最初はリーズナブルな価格からスタートする方が賢明です。

「価値」を決めるのは資格でもなく、学校でもなく、さらに自分でもありません。価値はお客が決めるのです。ですので、最初の方はとにかくお客(参加者、受講生、購入者等)に対して徹底的なお得感を与えるつもりで、値段を下げて提供する方が得策。

しかし、それは徐々に「値上げ」することを前提として、それだけ自分自身もパワーアップしていく必要があります。コーチングなりセミナーなりを続けていく秘訣は一つ。それは、永遠に、

「内容>価格」

を維持し続けること。値上げによって、

「内容<価格」

となってしまったら、それはそのサービスの終焉を意味します。しかし、価格を上げることで奮起して内容を高める効果もあるので、いずれにせよ価格はあげていく方向で自己研さんを怠らない姿勢が何よりも重要。


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なぜ、いじめられっ子は幸せになれないのか?

ちょっと反感を買いそうなタイトルですが、これまで38年間生きてきて、残念ながらやっぱりその傾向が強いと判断されることになりました。そしてそこにはいくつかのメカニズムがあることもわかりました。

世の中には子どもでも大人でも何らかの「いじめ」が存在し、いつの時代も、それがなかなかなくならない現実があります。そこで「いじめっ子」と「いじめられっ子」を比べてみた場合、それも悲しいかな、「いじめっ子」の方が「いじめられっ子」よりも物心ともに豊かになっているケースが多いと考えられるのです。

願わくば、、、人を傷つけるような「いじめっ子」には天罰が下され、被害者である「いじめられっ子」はいつか彼らを見返すような幸せを手にして欲しい。そう願う人も決して少なくないと思われます。

しかし現在進行形で「いじめ」を行っている大人は別として、少年時代、何らかの形で「いじめ」に加わった経験のある大人たちでは、傾向として「いじめっ子」の方がいい奴になっており、「いじめられっ子」はどういうわけか卑屈な性格のままであるケースがままあるようなのです。

その理由を今までずっと考えてきたのですが、最近、わかるようなケースがありました。そのケースについて詳しく報告することはできませんが、エッセンスだけ言うと、大人になっていい奴になった「元いじめっ子」は、そのことに対して何らかの「懺悔」をしていること。

それはさほど重くなくとも「あの時はあいつに悪いことしたな~、今どうしてるかな~」などと、少なからず罪の意識を持ちながら、いじめた相手のことを多少なりとも気にかけている。

それに対して「元いじめられっ子」は大人になっても、その「元いじめっ子」のことを恨んでおり、いつか天罰が下されて欲しいと願っているのです。もちろんこれは一般的なケースと言うより、私が見聞きした範囲においてなのかもしれませんが。

ここに「許し」の構造があると思われます。確かに「いじめ」は悪です。撲滅すべきです。それは確かに理想的な社会かもしれませんが、現実問題として、いまだに存在するとすれば、大切なのはいかにして幸せになるかってこと。

その上で言うと、「元いじめっ子」は大人になるプロセスにおいて少なからずの「懺悔」をしながら、自分がしたことに対する禊ぎをしてきた。「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」という有名な言葉がありますが、この論理で言うと、悪人(いじめっ子)こそが「懺悔」によって自らを浄化し、大人になるとなぜかいい奴になる傾向が生みだされるのでしょうか。まるで映画のジャイアンのように。

それに対して、「元いじめられっ子」は、いつまで経っても人を「許す」ことをせず、自分を不幸に陥らせた人や社会に対する「恨み」を抱き続けます。そしてその恨みは「鏡の法則」のごとく、同じような恨めしい現実を引き寄せてしまい、ますます不幸に磨きがかけられるのです。

もう一度言いますが、いじめは撲滅すべきです。でも、実際にいじめられた経験があるのであれば、その人が本当の意味で幸せになるためのこと。それは「許し」以外にはありません。むしろ「元いじめられっ子」には「許し」のチャンスを神から与えられた、別のいい方をすれば、「許し」によって幸せになるために過去の出来事が起きた。そのようにも考えられるのでは、、、と思うのです。

確かに自分に危害を加えた相手を許すことは難しいでしょう。しかし、そこで本当に許せた時、、、初めて「幸せ」の意味を理解できるのかもしれません。

蛇足になりますが、ボクシングの元世界チャンピオンである内藤大助氏は中学時代、ひどいいじめられっ子だったそうです。中学卒業後、別の高校に行き、20歳でボクシングにジムに入門します。そしてめきめきと力をつけて日本チャンプになった時、中学のあった地元に帰郷します。

そこで当時のいじめっ子と対面しました。今こそ当時の仕返しだ!と思って、その相手を見た時、何とも寂しそうな顔をしているのを感じ、その瞬間、恨みの感情が一気に消え失せ許すことができた。そして今では、そのいじめっ子たちは、内藤の一番の応援団になっているとのこと。

様々な形はあるにせよ、人を許すことほど、自らを浄化することは他にありません。繰り返しますが、今日の話はかなり反感を買う内容だったかもしれません。でも、本当に思ったことを書かせて頂きました。


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