3.中東編


<エジプト>

9月27日〜10月9日


【カイロ到着】

 夜中にカイロに到着。午前一時だ。相棒のカッキーとタクシーでダウンタウンに向かう。目当てのホテルは安宿ビル内のスルタンホテル。夜中2時だと言うのにホテル前のバザールは明るく、ホテルのフロントも光々としている。無事にチェックイン。しかし、日当たりの悪い部屋なのか、虫がいるようで痒くて眠れず。翌朝たまらず、上階のスルタンUに移動。今度は日当たりもよく、涼しいので安眠できそうだ。

 腹が減ったので、近くの定食やに行く。エジプト人の庶民の店で、あまり衛生的ではなかったが、4ポンドでサラダ、スープ、シチュー、パン、そしてご飯の上に鶏肉と豪勢。味も結構いける。
このホテルは近くに安い食堂やバザールがあり立地条件は最高にいい。テンションあがってきた。明日は何とピラミッドに登る。そのため早くに就寝。
(9/27〜28)


               
      (4ポンド定食-飯、鳥、スープ、シチュー、パン、サラダ)             (スルタンUの仲間達-左から佐藤さん、佃さん、俺、カッキー)


【ピラミッド登頂】

 2時起床。カイロに着いてすぐにクライマックスが訪れる。トイレを済ませて、2階のスルタンのロビーに集合。全部で8名。タクシーを2台に分けてギザ地区へ。俺のタクシーには、カッキーに川崎さん、そして紅一点の隊長が乗る。残りの4名も後からついてくる。

 ギザに到着。目的のピラミッドは、周囲が城壁のような壁で囲まれている。8人が集まり決起する。帰りのタクシー代を地面に埋めて賄賂用の最小限の金だけポケットに入れておく。順番に塀をよじ登って、いよいよだ。しかし、どうしたことか俺だけサンダル履きだ。聞くところによると、ピラミッドまでは相当なダッシュがあるらしいが、それを知らずサンダルで来たため、皆から笑われる。しかしここまで来たからには引き下がることはできない。一列になってゆっくり進む。沼地に入った時、足に水の冷たさが伝わる。ピラミッドが現れる。闇にそびえる巨大なピラミッド。不気味な風体だ。

 さて、ここからが勝負だ。ピラミッドの手前100メートルの塀に身を潜め、様子をうかがう。その時、ポリスボックスに灯りが点く。もう、後には引けない。一人目が突然走り出す。後続も走る。俺はサンダルのため走りにくい。走りながら、サンダルを手に持ち、素足でダッシュ。砂丘を登る。上りきったところでポリスの姿が見える。ムチを持って立ちはだかる。「ヤバイ!」と思うが、ポリスはガラベーヤを着ているためか、動きが鈍く走るのが素足の俺よりもずっと遅い。数人のポリスの間を抜け、ピラミッドまで一直線に走る、走る。ムチのしなる音が聞こえ、投石が耳元をかすめる。前方で一人目がピラミッドに手をかける。後続の俺も、「よし!」と思う。俺も何とかピラミッドに到着。一段一段は思ったよりも大きい。必死によじ登って10段目位まで到着する。後ろを見ると、ポリスは追うのを諦めている。とりあえず、ホッとする。しかし、カッキーと女性の隊長がポリスに囲まれている。まだ息の落ち着かない中、2人に必至で声援を送る。

 「逃げろ!」「間をすり抜けろ!」「 殴れ!」

しかし、程なく2人は捕まり、両脇を捕まれ連行される。隊長には悪いが、カッキーの姿にはちょっと笑ってしまった。薄情な俺たちは、追っ手が来ないことをいいことにゆっくり、休憩しながら一段、一段登る。小一時間ほどで頂上に到着。日の出前だった。清々しい気持ちもつかの間、ポリスの格好をした一人の男が突然現れる。「降りろ」と言う。1対6で皆強気。完全に無視する。その男、ポリスの格好をしているものの、偽ポリのようで、単に俺たちから金をせびりたかっただけのよう。本物のポリスが来たらたくらみはパーになってしまうので、本人も必死だ。仲間を呼ぶと言って、下に向かってライターをカチカチするが、ピラミッドは大きい。そんなのが見えるはずない。言うことを聞かない俺たちに業を煮やして最後は「降りてください」とばかりに懇願調になる。俺たちはそれでも言うことを聞かない。今度は逆上して、懐に手を入れるや、いきなり俺に銃口を向ける。正直ビビッたが周りが「モデルガンや」と囃し立てる。銃口を向けられている方はたまったものじゃないが、別の奴に向けられると、今度は俺も囃し立てる。本当にモデルガンのようで、30分ほど粘った末、ようやく諦めてくれた。

 日が昇る。世界一のクフ王の大ピラミッドの上で拝む日の出は最高だ。それまでの疲れが一気に吹き飛ぶ。捕まった2人のことはもちろん忘れている。ふと辺りを見渡すと、明るくなったピラミッドの頂きに多数の「うんこ」が厳かに置かれてあった。恐らく、先方部隊が登りきった後に便意を催し、そこに律儀にうんこをセッティングしたのだろう。そうなると俺も突然便意を催し、皆に「見るなよ」と言って、世界で最高のうんこをする。

 その後、日が昇りきったところで、ゆっくりと降り始める。ポリスが大勢下で待機している。もちろん観念するしかない。降りたところで、両脇を捕まれ連行される。アラビア語で何か言ってるが当然分からない。言っているアラビア語をそのままリピートすると、なぜかポリスが喜ぶ。「グッドアラビック」などと言っている。

 6人は牢屋に連行される。捕まった2人は既に牢屋にいた。小一時間ほど軟禁される。ポリスの一人が俺を呼ぶ。なぜ俺だけなのか分からないが、ポリスはニコニコして「グッドアラビック」と言っている。どうやら俺だけ逃がしてくれるような素振り。一緒にいた皆は「石田さんもついにケツを捧げることになった」などと言って喜んでいる。小心者の俺は、「一人じゃいや!」と、再び牢屋に戻る。しばらくして全員が呼ばれ、ボディチェックを受け、ポケットの3ポンド(100円)を払い、そのまま釈放される。無事にタクシー代を埋めたところまで戻り、爽やかにホテルに戻る。シャワーを浴びて、そのままお昼寝。

 翌日、夜中にごそごそ物音がして目が覚める。カッキーが再び登頂に挑戦しに行った。しかし今日もダメだったようだ。
(9/29〜30)


【再びピラミッド】

 今日は普通にピラミッドを見に行く。その前に、午前はシリアのビザの申請に行く。申請書には「イスラエルに行ったことがあるか」などという項目があった。この辺りの情勢の複雑さを垣間見た思いがした。

 午後、カッキーと佃さんとでギザのピラミッドへ。タクシーと交渉して7ポンドで成立。しかし、ギザ地区に入るや、ピラミッドの手前だと言うのに、「ここから先は10ポンド」とボリ始める。気分を悪くして、降りる。そこから別のタクシーで5ポンド払ってピラミッドまで。

 気分を悪くしたが、昼間に見るピラミッドもやはり凄かった。思っていたよりも巨大。それにしても誰が何のためにこんなものを造ったのだろうか。墓にしても、ここまでする意味がわからない。きっと宇宙的、超次元的な意味があるのだろう、と感じた。しっかし、俺もこんなのによくぞ登ったものだ。そう言えば、今みたいに正式に入場すると10ポンド(約300円)取られるが、昨日の賄賂は3ポンドだった。正規の入場料よりも賄賂の方が安いなんて。。。
(10/1)

         
       (世界最大-クフ王の大ピラミッド)                (カフラー王のピラミッド)

         
        (ピラミッドのふもと-NO CLIMB)                (ピラミッドの内部-本当は撮影禁止)

                 
                             (スフィンクスとピラミッド)



【カイロでまったり】

 カイロは今やバックパッカーの3大聖地と言われているようだ。後の2つはイスタンブールとバンコク。それだけ、日本人を始め世界のバックパッカーが集結している。物価が安く、見所や食べ物が豊富なので納得できる。エジプトに来て初めて食べて、はまった物として、コシャリとカスタードアップルがある。コシャリとは米とマカロニの上に豆と天かすのようなものがふってあり、トマトソースとビネガー(酢)をぶっかけたもの。文章でいうととっても不味そうだが、これがなかなかどうして、結構いけるのである。しかもコシャリは他の国ではまず見かけないエジプトオリジナルのもので、値段も1ポンド(約30円)と安い。日本でいうと値段やお手軽さから、ラーメンか牛丼のような感覚だ。
 
 あと、はまったものとしてはカスタード・アップルという果物がある。外見は緑色の松ぼっくりのような形で、つかむと柔らかい。ホテルの前のスークに山積みだったので、単なる好奇心から買ったのが最初。割ると真っ白の小さな房が現れ、口に含むと砂糖のように甘く、少しざらざらした食感。種が大きいのでさほど実はないが、ちびちび食べれて結構やみつきになった。

              
                    (コシャリ-美味い!)                                (カスタードアップル-美味い!) 

 さて、せっかくエジプトに来たので近郊も含めて観光に出るべきなのだが、どうもカイロがまったりしすぎて出る気が起こらない。イスタンブールであれほど沈没したのに、ここでも沈没。日がな日本人としゃべって、日本語の本を読んで。こんな人がこのビルにはたくさんいる。とりわけ、有名なのが「小林住人」という人で、なんでもこのビル内のサファリホテルに8年も滞在しているという。小林住人の噂はブダペストやイスタンブールでも聞いた。どんな人だろうといろいろ想像していたが、会ってみると会社の有給をとって来たようなまったくの普通の人だった。結局、ほんの少し言葉を交わしただけで、人となりはよく分からなかった。

 ドミトリーで同室だった佃さんが日本に帰る。佃さんは公務員のようで、貴重な休日をとってエジプトに来ている。しかし、彼はエジプトには何度も来ており、ものすごい遺跡オタクだった。ナイル川南にあるアブシンベル遺跡を見て感涙したそうだ。カッキーと同じくらいよくしゃべるが、佃さんの場合は話のポイントを押さえていて、絶妙なボケ、そしてツッコミをかわす。だいぶ笑わせてもらった。体も顔もこゆい感じなのだが、俺たちとの別れ際、うっすら涙を浮かべていた。俺は好きだな、佃さん。佃さんがいなくなったベッドにはすぐに新しい人が横たわっていた。そして一緒に飯を食いに行った。カイロのホテルコミュニティとはこんなところだ。

 結局、カイロでうだうだしてしまい、アブシンベルにもルクソールにも行かなかった。実はこの一ヶ月後、日本でもニュースにもなった「ルクソール日本人旅行者射殺事件」が起こったのだった。今となっては行かなくて正解だったようだ。カイロではちょっと観光らしく博物館や教会巡りには行った。
(10/2〜5)

                  
                 (ツタンカーメンと俺-国立博物館)                             (原始キリスト教-コプト教会)

【シナイ半島へ】

 カイロを出る。またもカッキーが同伴。シナイ半島に向かうため、バスターミナルに行く。午前10時過ぎに出発。結構立派なバスだったが、乗っていたのは俺たちを合わせて5,6人と少ない。きっと国営バスなんだろう。カイロを出ると砂漠が続く。まともに砂漠を見たのは生まれて始めただったので、最初は感激したが、10分程で飽きる。

 車内では本を読んだり、ウトウト居眠りをして楽しんだ。気がつくと外は真っ暗でバスにも人が大勢乗っている。夜の8時にセント・カトリーナに到着。降りたのは俺たち2人と日本人の女性2人と韓国人男性が一人。日本人女性は近くホテルに向かったが、俺たちは宿代がもったいないので駅で野宿。韓国人の男性チョイさんも俺たちに加わった。朝にマンゴジュースを飲んだきりだったのでお腹が空いていた。チョイさんからお菓子をもらう。6時間後にはここからシナイ山に登る。

(10/6)



(シナイ半島の砂漠と俺)

【シナイ山】

 午前二時に目覚ましがなる。寝袋が落ち着きちょうどウトウトし始めていた時だった。なんだかダルイ。2人は既に起きてお茶を飲んでいた。寝ていないそうだ。さて出発。空を見上げると、満天の星空。親指と人差し指でオーリングを作ったくらいの大きさの星が空を埋め尽くしている。この辺りはめったに雨が降らないし電灯がまったくないので、星を見るには最もよい条件だ。ちょっと感動。

 シナイ山のふもとまで行くと、既に多くの登山者がペンライトを持って歩き始めていた。
山は雨が降らないため、草木がほとんどなく、轍があるとはいえ足元がごつごつして歩きにくい。買ったばかりの靴が痛い。靴擦れ状態だ。カッキーとチョイさんはどんどん先に行く。思ったよりも高い山だ。ペンライトでうっすら周囲が見えるが、景色がなかなか変わらない。見上げると頂きはまだまだ先だ。足を引きずりながら必死で登る。無心で登り、ようやく頂上に着く。カッキー達は既に到着していた。辺りはまだ暗く、寒い。ザックを背負ったまま登ったのが幸いして、シュラフを取り出し、体に巻きつける。日が昇る。裸の山の全貌が見え始める。湿度が低いためか、空が青く透き通っている。徐々に空が赤みを帯び始め、神なる太陽が姿を現す。モーゼが十戒を授かった地でもある。言葉にならない。感動で涙が溢れ出る。

 太陽が完全に姿を現し、周囲も明るくなる。先ほどまで寒かったのとは逆に暑くなり始め、山を降りる。野宿したターミナルに戻り一休み。チョイさんが俺を呼んでいる。日本人の男性が困っているとのこと。事情を聞くと、タクシーでちょっと先まで行くのに日本円で7千円ほど吹っ掛けられている。いくらなんでもボリ過ぎ。その男性は一人で来ていてよく分からず、もう少しでお金を払うところだったらしい。俺たちが来て安心したようだ。急いでもいないので俺たちに加わると。奴らは突然ディスカウントし始めたが、さようなら。仲間が4人になり、公共のバスでダハブへ。

 ダハブは海が美しい。ダイバーでもあるカッキーのテンションがあがっている。その夜は加わった男性(村瀬さん)とチョイさんとカッキーと俺でディナーを囲む。村瀬さんが助けてくれたお礼とばかりに持ってきたラーメン、カレー、茶漬けをご馳走してくれる。韓国人のチョイさんも日本のオーセンティックなメニューに喜んだみたいだ。村瀬さんはクリスチャンで「祈り」のためにシナイ山を訪れ、その足でエルサレムに向かうと。紅海の潮風の音を聞きながら村瀬さんのスピリチュアルな話に耳を傾ける。いい日だった。
(10/7)

             
                   (シナイ山頂上で朝日を仰ぐ)                                    (下山する)

     
                                (あまりにも美しい-シナイ山の頂上から)

                      
                          (ダハブでのディナー-左からチョイさん、村瀬さん、自分で散髪した俺)

【ダハブ】

 ダハブは紅海の落ち着いた村。カッキーに薦められ、シュノーケリングの3点セットをレンタルし、海に入る。岩がごつごつしてちょっと危ない思いもしたが、徐々に慣れてきて、沖に出る。美しい。カッキー曰く、透明度が半端じゃないそうだ。雲ひとつない空に透き通った海。珊瑚の周りを色とりどりの魚達が戯れる。手を差し伸べても逃げることはない。

 夜、村瀬さんがエルサレムに出発し、しばらくしてチョイさんも出発。短い出会いだったが美しく時をともにした。

 ダハブの2日目も海に入る。
ブルーホールというダイビングスポットまで軽トラの荷台に乗って行く。白人の女性2人とともに。ブルーホールは人の住む場所でないだけに、昨日の海よりもさらに透き通っている。ブルーホールの名のごとく、沖に出ると突然の絶壁が巨大なホール(穴)のよう。ひと気の海岸、気ままにシュノーケルをつけては海に潜り、そして岸にあがっては昼寝する。最高だ。シュノーケルをつけてちょっと沖に出てみた。周りには誰もいないので、パンツを脱いで全裸で魚のように泳いだ。さすがにパンツを手に持って泳いだのだが、この際みんなで全裸になって泳ぎたかった。ここはそんなところだ。
(10/8〜9) 

               
                       (ダハブの海)                                            (海と俺)





<ヨルダン>

10月10日〜15(19〜20)


【ヨルダン入り】

 エジプトを脱出する。6時半のバスには起きられず、8時過ぎに起床。ビジョー(タクシー)を捕まえて、国境のヌエバまで。ビジョーを捕まえたはいいが、なかなか出発しようとしない。どうやら車をいっぱいにしないと出発しないそうだ。一台いくらではなく、一人いくらの計算だかららしいがせこい考えだ。急いで乗ったのは何だったのだろう。一時間ほどうろうろして一人を捕まえようやく出発。ヌエバまで70kmを時速100kmで走ったので11時前にはヌエバに着いた。ヌエバ発-アカバ行のフェリーの切符を買うが、片道42ドルと高い。12時半になり出航。1時間ほどでヨルダンのアカバに到着。パスポートを取られ2時間ほど待つ。ビザを持っていなかったのでちょっと心配だったが、戻ってきた時には無事に押されていた。しかも日本人はただ!!ドイツ人やオーストラリア人は30ドルほど取られていたが。さすがは最大援助国。ドイツ人達とタクシーを相乗りしてペトラ遺跡のあるワディムーサに行く。暗くなり目的地に到着。宿はたくさんあったので料金を聞いてからチェックイン。マットレスのツインで400円ほど。キレイで安い。夕食も豪華に400円ほどのオープンビュッフェ。今日はよく眠れるぞ。
(10/10)

     

                               (ホテルからワディムーサのまちを眺める)


【ペトラ】

 クレオパトラ・ホテルという豪快な名前のホテルで快眠し、今日はヨルダンのハイライトとなるペトラ遺跡を観光。カッキーと一緒にぼちぼち歩く。ペトラは1日20ディナール(約4,000円)の拝観料を取る。どうにか上手く忍び込むことはできないかと入り口付近で考えていると、二人の白人が声をかけてきた。2日券を買ってしまったが、1日で十分だったので残り1日を買わないかと。最初は15ディナールと言ってきたが、12.5ディナールで交渉するとすんなりOK。1,000ばかり得した。

 ペトラは最初にハイライトが待っている。そう。インディジョーンズで有名なあの遺跡だ。主人公が馬に乗って岩の間を駆け抜けるシーン。エル・ハズネという神殿だ。でかい。テンションがあがる。
 
 さらに先に進む。ローマ円形劇場、ビサンチンの壁、ほら穴式の住居など全て岩をくりぬいて作ってある。見事な造形美だ。途中で食事をして、ペトラも奥まで歩き進み、山に登る。靴擦れで足が痛いが、ロバにも乗らずに頑張って歩いた。最後にエド・ディルというでかい神殿に出会う。よく見ると上に人がいる。調子乗りの俺のこと、当然、登る。上から見ると壮大な自然が目に飛び込む。スケールが桁違いに凄いで。
 ペトラは結局1日で大満足。明日はアンマンに行く。
(10/11)

              
                            (ワディムーサのガキ達)

   
    (岩の間を歩く俺)    (出口はまだか〜)      (何か見えてきた)      (でた〜!)

            
                (建物跡)                            (住居にて)

         
            (ほら穴式の住居)                            (ラクダ)

        
   (最後のハイライト‐エド・ディル)             (よく見ると俺がいる)


【アンマン〜死海】

 今日でカッキーともお別れ。イスタンブールから一緒だった。騒々しい男だったがロマンチックないい奴だった。お互い住所とメッセージを交換する。俺のメッセージにカッキー、なんだか感激していた。アンマン行きのビジョーに乗り、3時間ほどでアンマン。カッキーとはここでお別れ。アンマンを素通りしてシリアに向かうとのこと。別れ際、固く握手して、見えなくなるまで手を振った。

 久しぶりに一人になった。ファラホテルという安宿に向かう。人に尋ねながら難なく到着。俺は安い屋上のルーフに泊まる。本当にルーフで難民のようにマットが敷き詰められている。雨が降らないのでこの方が快適だ。日本人がいっぱいいる。マットの上にシュラフを敷き、三島由紀夫の「音楽」という小説を読む。三島は初めて読んだが、フロイトの精神分析を主軸にして書かれたもので面白く、一気に読んだ。そんなこんなでちょっと沈没気味に過ごした。ルーフでは久々にクラリネットも吹いた。

 アンマン入りして3日目。今日は死海に行く。昔、小学校の図書館で、海に浮びながら新聞を読んでいる写真を見て興味を抱いた死海。当時はヨルダンもイスラエルも知らなかったが、それに今日行く。
宿で会った日本人と3人で出る。パンを買ってバスで死海まで。一人はなぜか袋にぶどうを入れて持ってきていた。バスを何度か乗り換え死海のツーリストビーチに到着。俺らはそこには入らずヒッチで別のスポットに行く。最初は3人で親指を上げていたが、途中で一人がグレ始めて座り込む。ツーリストビーチでいいとごねるが、俺たち2人は構わず親指を上げる。15分ほどでトラックが止まる。そこから5分でグッドスポットに到着。ツーリストビーチでないので、誰もいない。浜に出ておもむろに服を脱ぐ。恐る恐る足を入れ、先ずは海水を舐めてみる。予想以上に塩辛い。ゆっくり進んでいき、腰までつかると、ふわっと浮いた感じがした。あとはひたすら浮きつづけ、ウルトラマンの格好をしたり、一人が持ってきたぶどうを食べたり、本を読む仕草をしたりして遊んだ。本当に浮きすぎるほど浮く。飽きない。浜に上がると強烈な直射日光で髪の襟足が乾き、塩が真っ白になる。いい加減のところで、上がり、道路の向いの温泉で塩を流す。この温泉がグッドスポットたる由縁。これらは誰のものでもないのでもちろんただ。塩を流して服を着、道路に出て再びヒッチ。すぐに捕まる。行きは宿から2時間かかったが、帰りはなんと30分で到着。宿でシャワーを浴び、今日もまったりする。

 翌日は、なんだか懐かしい夢を見た。学生時代に長く家庭教師をやってた姉妹が出てきた。その姉妹の親がこんな家庭教師断ります、と言っているのを上の娘が必死に辞めさせまいと反抗するというもの。なんだか朗らかな気分になって目が覚めた。異国でこんな夢もいいものだ。
(10/12〜15)

              
               (ぶどうを食べる俺)                                 (ウルトラマンになる俺)

                                 
                                       (温泉で塩を流す)






<イスラエル>

10月16日〜20


【イスラエル入り】

 この旅、13カ国目の国、イスラエル。当初は行く気がなかったがここに来て気変わり。アンマンで会った、池原さんと同行する。イスラエルに入国するのに、パスポートにスタンプを残してはいけないことは、この辺りの両者にとって常識だ。スタンプがあると、その後のイスラム圏への入国が制限されてしまうからだ。ヨルダンからキングフセイン橋を渡り、イスラエルのパスポートコントロールへ。女性の係員から2,3の質問を受け、荷物をX線に通した。見るからに強力そうだ。無事にノースタンプで入国(スタンプは別紙に)。

 2度ほどバスを乗り換えてエルサレムの旧市街地に入る。結構な人ごみだ。バックパッカー御用達のタバスコホテルに向かう。イスラエルは周辺諸国に比べて物価が高いが、このホテルは街のど真ん中にある上にドミトリーで500円程度と安い。


朝から何も食べてなかったため、腹ぺこ。ジュースとケバブを買って腹ごしらえし、旧市街内を周る。歩いていると突然、物売りのガキが俺たちをからかってきた。当然、無視するのが一番だが、池原さんは突然形相を変え、ガキの胸倉をつかみ殴りかかろうとした。隣にいた大人がすぐに謝り、大げさなことにはならなかったが、池原さんがちょっとカッコよく思えた。自分の言いたいこと、思ったことを相手にストレートにぶつけることが日本と言う国を出ると大切になるのだ。時に衝突もあるが、それがお互いの信頼を得、友好関係を築くことにもなる。そんなことをこれまで何度か学んできた。

 話がそれるが、日本人は意外と国外では差別されるものだ。白人から見ると有色人種と言うことが、自然と差別の対象になるものだろうか。日本にいると、まず経験しないことだ。よく言われたのが、「チン、チョン、チャン」や「ジャップ」。前者は韓国人や中国人など、東洋人を人くくりにし、後者はそのまま、日本人に対する侮蔑だ。ベルギーで聞いたのが「ジャポン・シノワ」。「そんなことするのは日本人か中国人ぐらいだよ」という意味。フランス語圏では割とよく使うスラングらしい。差別をされるのも一つの貴重な経験かもしれないが、時には池原さんのように、差別に対する怒りをストレートにぶつけてみる必要もある。なめられないためにも。
 
 夜、宿に戻ると日本人といろいろ話したが、中には危ないやつもいる。例えば、「カズ」のように。彼は薬物にはまっているが、そんな奴に限って話が面白いので侮れない。むしろ自由に生きている彼のことを羨ましくも思った。

            
                 (エルサレム旧市街を眺める)                          (旧市街を描いた壁絵)

 エルサレム2日目は金曜日でユダヤ人、ムスリムの休息日になる。ユダヤ地区とイスラム地区は店が閉まるが、ここはキリスト教地区なのでいつもと同じだ。今日はエルサレムの一日観光。出発点はイエスが十字架を背負って歩いた道。今は完全なお土産ロードになっているが、そこを歩くツアーらしき白人は皆、涙を流している。俺はクリスチャンではないのでその重みを直に感じる事はないが、どこかしら身が震えたのも事実だ。

 そのまま道に沿って歩くと、星墳墓教会にたどり着く。ここはイエスが処刑された場所になっている。そこも涙を流している旅行客で埋め尽くされていた。ユダヤ地区に行くと、古いシナゴーグや昔の建物跡がある。そして嘆きの壁。金曜日だけあって正装したユダヤ人でいっぱいだ。国外ではなかなか黒尽くめに三つ網のユダヤ人を見ることはないので、ここまでなると圧巻だ。

                          
                            (イエスのロード)                                (聖墳墓教会)

                
                   (最後の晩餐)                                        (シナゴーグ)

                
                      (岩のモスクと嘆きの壁)                                      (嘆きの壁)


 夜、池原さんはホテルのパーティに行ったが、俺は一人読書を楽しむ。夜中、何か変な音で目が覚める。俺が寝た後に池原さんが帰ってきたようだが、池原さんのベッドから水が噴射するような音が聞こえる。周りをよく見ると、雨が降ってきたためか、ルーフの客が室内にマットを持ってきて、俺たちのベッドの隙間に敷き詰めて寝ている。しかし、彼らも池原さんの方から聞こえる音で、皆目を覚まし騒いでいる。どうやら寝ゲロのようだ。彼はパーティに行って久々に飲みすぎたのだろう。最初は上を向いてゲロ噴射をしていたようだが、重力の影響でゲロが逆流し苦しくなったのか、今度は横向けになりベッドの外にげろを吐いている。周りの白人が「OH!NO!」などと言って騒ぎながら、急いで場所を移している。池原さんを揺すったが起きる気配なし。とりあえず横向きなので窒息することもないだろうと思い、俺は俺で再び寝入った。

 翌朝、目を覚ますと池原さんはいなくなっていた。しばらくすると、シャワーを浴びて帰ってきて、汚した床を掃除し始めた。周りの白人にすまなさそうに謝っていたが、皆、結構キレていた。しかし、このタバスコホテル。巨大なドミトリーで男女同室なのだが、白人の女性の何とも大胆な姿。長いTシャツを羽織っているだけで、中にはノーパンの女の子もいる。俺は2段ベッドの下なので、斜め上の女の子を姿がよく見える。寝たふりをしながら薄めで動きを伺う。すると、何の警戒もないのだろうか、ノーパンのTシャツが上にはだけた瞬間、あのあまりにも魅惑的な○○○が見えてしまった。禁欲生活を余儀なくされている俺にとってあまりにも刺激的だ。
 
 池原さんは昼には酔いが抜けたようで、一緒に出て行動する。夕方、オリーブの山に登る。空は半分が青、半分が灰色。昨日の雨雲が少し残っているようだ。山の頂きに着くとちょうど日没の時間になり、空が真っ赤に変わっていくのを楽しみながら、世界の聖地、エルサレムに沈む夕陽にさよならを言う。 

 太陽は我々太陽系に住む生物にとっては「神」のようなものだ。それは間違いなく唯一のものであり、毎日確実に出会っている。夕陽も同じように、世界のどこにいても必ず遭遇するものだ。しかし、その場所によって、いつも違った顔で俺たちの前に現れる。世界中がその土地のもてなしにより、唯一「神・真・心」たる太陽のクロージングを演出する。それを見るのも旅の楽しみの一つだ。
(10/16〜18)

【思索】

 起きた時、激しい腰の痛み。ベッドが固いのか、旅に疲れているのか。今日はエルサレムから出て、近郊のベツレヘムという街に行く。イエスが馬小屋で生まれた街だ。今日も池原さんと行動をともにし、ミニバスで向かう。ガイドもないので何があるのか分からないが、とりあえず丘に登ってみた。特に何もないし、景色がいい訳でもない。2人でビールを飲みながら話をした。池原さんは沖縄出身で俺と同い年。腹が立てばためらわず相手の胸倉をつかむが、内面的にはロマンチストで普段は小声で話す。結局話をしただけで、エルサレムに戻った。
 
 何となくこの旅のことを考えてみた。旅をしていると真の自分が出てくるような気がする。日本での俺は、どちらかと言うと明るく、お調子者で外向的であるが、この旅では自分のネガティブな部分が実によく出ている気がする。旅先で出会う人は皆、物事に対して器用でよく勉強もしているし、何ごとに対しても積極的だ。それに比べて、俺はなんて不器用な人間だろうかと思う。そして、ここの来て「カズ」という人間に出会った。彼は30歳。どちらかと言うとアウトローの部類かもしれないが、実にポジティブだ。自身で言うに、昔はいわゆる不良で、高校卒業時は20歳を超えていたとか。もちろん勉強なんかしたこともなく、まして大学受験なんて考えたこともなかったそうだ。ところが、あることをきっかけとして、一年間、恐るべき集中力を発揮し、一流大学への入学を果たした。旅ではドラッグも自然にやり、女も簡単に彼のものになる。

 カズいわく、何ごとも自然の「流れ」に身を任せていると何ごとも上手く行くそうだ。そんな彼のことを、俺は「憎い」と思うと同時に羨ましく思っている。俺は自分では直感的な人間だと信じてきた。しかし、旅に出て、全てが自分の判断に委ねられるや、実にくよくよといろいろ考えてしまっている。彼の言う「流れ」が俺の味方になっていないのだ。

 翌日は池原さんがここを発つ。俺は一人残り、またしてもいろいろと考える。「旅」とは一体何なのか。旅をすると確かに多くのものを見、たくさんの人と出会う。そして感動する。しかし、一番関心を持つのは他ならぬ自分自身であることに気がつく。例えば、今、エルサレムに来ており、その大きな歴史を間近に見ている。旅とはその国の文化や歴史を見ることではなく、それらに対置しながら、学び、感動している自分自身を客観的に見ることなのかもしれない。

 「あなたは楽しんでいますか?感動していますか?学んでいますか?」

 そう問いただす第三者的な自分がいる。しかし、この時、俺の答えはNOだった。しかし、そうやって苦しみながら、自分自身と戦うのもまた旅なのである。

 そうやって考えながら、外に出てみた。近代史における凄惨な歴史の象徴であるホロコーストに行ってみた。胸を打たれている自分がいる。よかった。今日はなんだか美しい日だ。明日、エルサレムを出る。
(10/19〜20)

                          
                      (不健康そうなケミカルな漬物)                          (人間を焼くオーブン‐ホロコースト)

                           
                                         (人間の脂肪で作った石鹸‐ホロコースト)


【出国】

 5泊6日のイスラエルの旅を終える。いろいろ考えた滞在だった。池原さんが先に発ったため、一人で出国。公共のバスで行こうとするが、ターミナルにはタクシーの客引きがウヨウヨいて、どうしてもバスに乗せないよう嘘つきばかりだった。何としてもでも乗ってやろうと現地の人に手当たり次第聞いて、ようやくバスを見つけ乗り込んだ。しかし、今度は運転手が25シュケル(約750円)だと言い出す。後ろのカップルに聞いてみると、10シュケルだと言う。降りる時は少しもめたが、当然、10シュケルしか払わなかった。着いたところが、ジェリコといってパレスチナの自治区。完全にアラブ街だ。治安もよくなさそう。降りたところがダウンタウンだったので、国境行きのバスターミナルに行く必要がある。しかし、地図もなくどこだかわからないため、仕方なくタクシーを頼ることに。5シュケルで国境まで連れて行ってやると言われ、安いと思って乗り込んだが、白タクだけに怪しい感じ。案の定、2km先のターミナルで下ろされてしまい、さらに10シュケルも請求された。拒んでいるとなんだか危険な雰囲気になってきたので、ポケットに入ってた小額の小銭を持たせて、急いでターミナルに入って行った。国境までは公共のバスでスムーズに。アンマンのファラホテルまでも非常にスムーズに行けた。

 ファラホテルには池原さんを始め、カッキーやその他の知り合いにも再会。一緒に夕食に行き、俺は羊の頭の姿煮を食べた。グロテスクだったが、何とか食べられた。
(10/21)


(羊の頭の姿煮)

【久々の体験】

 ファラホテルのルーフで夜中に久々の体験をした。エロティックな夢を見て、何年かぶりに「夢精」をしたのだ。そう言えばここ数ヶ月まったくの禁欲生活で、あまりその気も起こらなかった。イスラエルでキレイな白人ねえちゃんの○○○を見たこともあってか、肉体が素直に反応してしまった。大人になってはなかなか味わえない気持ちよさで、ご満悦の顔で一人パンツを履き替えに行った。翌朝、周りの日本人に正直に報告すると、盛大な拍手とともに、賞賛と羨望の声をかけられた。

 今、ファラホテルにいるのは池原さん、川崎さん、鈴木さん、そしてカッキー。池原さんとカッキーはすぐに帰国する。川崎さんと鈴木さんはこれから東に向かう。俺と同じルートだ。夕方、カッキーが凄いテンションでルーフに戻ってきた。バンコク行きのチケットが買えたと言うのだ。しかも今日出て行くというのだ。出発までまだ時間があったので、皆でお茶を飲みに行った。一ヶ月同行したカッキーもついて帰国かあ。なんだか寂しい感じがした。
 
 夜は川崎さんと飯に行った。米とオクラのシチュー。オクラはてっきり日本語だと思っていたが、アラビア語らしい。これはヨルダンで食った中で一番美味かった。食後は2人でデザートを買いに行く。蜂蜜たっぷりのアラブ菓子だ。川崎さんははまっているそうだが、なるほどここの菓子は蜂蜜がしつこくなく美味いと感じた。
(10/22)






シリア>

10月23日〜24(11月1日〜5日)

【シリア入国】

 朝、9時に川崎さんとセルビス(タクシー)乗り場に行った。赤いアメ車のセルビスに乗ると、運転手は見るからにヨボヨボのおじいさん。大丈夫かな〜と心配したが、どこに吹く風、ものすごいスピードで一気に国境へ。イスラエルのスタンプがないかパスポートを念入りに調べられシリア入国。そしてまたも凄いスピードでダマスカスに到着。相乗りした客にはバーレーンの男性がいたが、ダマスカスのダウンタウンに着くと、何かの客引きらしきシリア人がその男性を一瞬に取り囲んだ。いつもなら俺たち日本人に来るのだが、さすがは産油国の金持ち国だけに、その辺はわかるのだろう。俺たちのようなケチよりも、持てるものは持たざるものに配分せよとのイスラムの教えに沿った同じアラブ人の方が客筋としてはいいわけだ。

 バックパッカー御用達のアルラビエホテルにチェックインして、イスラムの第四の聖地と言われているウマイヤド・モスクを訪れた。その前に両替。この国はブラックマーケットが公然と存在しており、普通はスーク内の貴金属店などでこっそり堂々と行われる。

 金が入ったことでようやく腹ごしらえ。鶏の丸焼きを食べる。美味しい。宿に帰るといろんな人がいた。夫婦で旅している人とお茶を飲みながら話をした。少年、少女のようで素敵な夫婦だった。
(10/23)


                                 
                         (ウマイヤド・モスク)                               (鳥の丸焼き‐美味い!)

                                  
                                          (ウマイヤド・モスクの内部-礼拝客が多い)


【パルミラ】

 今日はシリア最大の見所であるパルミラ遺跡に日帰りで訪れる。ちょっと予定より遅れて11時過ぎのバスに乗った。着いたのが3時。5時のバスに乗らないと日帰りができないので、観光は2時間程度となる。やや急ぎ足だ。

 ペトラ観光の後ではちょっと物足りないとは聞いていたが、一つ一つのスケールでは劣るものの、全体としては結構見ごたえのある遺跡だ。写真をとりながらどんどん奥に進んでいく。すると山の上にかっこいい城が見えた。時間が迫っているものの、登りたがりの俺としては、登らずに帰ることはできない。走れば間に合うだろうと、一気に駆け上がった。正解。ここからだとパルミラの全貌が見渡せる。しかもちょうど夕暮れにさしかかろうとしている時なので、遺跡全体が赤みを帯び始め美しさがスケールアップし始めている。夕方のひと気のないパルミラは最高だ。

 5時のバスにも間に合い、日帰り成功。満足、満足。
(10/24)

               
                         (パルミラの入り口)                                      (柱がたくさん)    

               

                       (夕暮れ時-写真を撮る俺の影)                                (かっこいい城だ)


        
                                                   (パルミラの全貌)



【体調がやや悪化】

 シリアに入ってから体調が悪い。これまでの疲れが噴出しているようだ。しかし、今日はすることがある。この後、レバノンに行くため、シリアへのリエントリー(再入国)手続きを済ませることだ。川崎さんと進ちゃんとで行く。なかなかに面倒な手続きだったが、無事に仕事を終え、宿に戻って体を休める。昼寝タイムに入ったのだが、その時、面白い夢を見た。聴いたと言う方が正しいかもしれない。夢の中にJAZZが流れたのだ。初代マイルス五重奏団の「リラクシン」というアルバムの中から「It could Happen to You」が流れた。マイルスのテーマにアドイブ、コルトレーンのソロまでばっちり聴けた。もう数ヶ月間もJAZZを聴いていないので禁断症状がきたのか。しかし、それを聴いてからなんだか頭も体もすっきりしたような気がした。

 夜は宿の皆で自炊をするらしい。俺も加わった。今日は鶏肉の雑炊。体調が悪い時にちょうどいい。日本人の女性がスークで買ってきた材料で器用に料理する。美味い。体調は今ひとつだが心が休まる思いをした。
(10/26)



【クネイトラ】

 昨晩はあまり眠れなかった。シリア入りしてからずっとこんな感じだ。シリアが悪いのか、ホテルが悪いのか分からないが早く治したいものだ。今日はクネイトラに行く。そこは最近イスラエルに攻撃され廃墟になった街だ。ここに行くには内務省からパーミットを取らなければいけない。クウェート大使館横のシリア内務省に行き申請をする。係員の慣れたもので手早く応じてくれた。

 バスでクネイトラに着いた。治安状況もあるので警察官が一人我々について案内してくれた。昼間だと言うのにやはり暗い雰囲気。これをゴーストタウンというのだろうか。ブダペストで見たヒラノさんの写真を思い出した。戦争が長引いた分だけ、サラエボの写真の方がインパクトはある。しかし、建物の状態より明らかに違う点があった。それは子どもの表情である。サラエボのそれは子どもの目が完全に死んでいた。幼き頃からあまりに悲惨な光景を見つづけてきたせいか、本来カメラを向けると喜ぶはずの子どもの顔はまったくの無表情だった。クネイトラは確かに攻撃を受け、ゴーストタウン化してはいるが、人が住み子どもの笑顔がまだ残っている。たくましく生きている。
(10/26)

                       
                  (攻撃でモスクがやられている)                              (ゴーストタウン化している)



【ビザ取り】

 昨日は部屋の電気が消える前に寝入った。川崎さんが何かもの書きしてるなと思った瞬間、朝が来ていた。久々に熟睡できたようだ。

 今日はそれぞれが自由に行動する。いち早くレバノンに行く連中もいれば、ユーフラティス川を見に行く奴もいる。俺はここでパキスタンのビザを取る必要がある。午前中と時間指定されているため、急ぎになる。先ずは日本大使館でレターをもらう必要があるが、これがすっかり待たされ、結局、出てきたのは昼前。パキスタン大使館には翌日行くことになった。

 翌日は少し迷ったものの、何とか午前中にパキスタン大使館に到着し、発行までしばらく待たされた。その間は街歩きをしたが、さすがに大使館街だけあって、ちょっと閑静でハイソな雰囲気が漂っている。2時になり再び大使館を訪れ、ビザをゲット。これでインドまでのルートがつながった。
(10/27〜28)






レバノン>

10月29日〜31

【レバノン入国】

 勢いでレバノンに行くことになった。今日は一人で行く。バスで国境まで。あまり外国人が乗っていないようで、パスポートコントロールに時間を取られた俺は危うく国境に置いていかれるところだった。難なく国境でレバノンビザを取り、入国。ターミナルから市内バスに乗る。降りたところから結構歩いて、宿に到着。鈴木さんや進ちゃんらは一日早く来ていた。

 レバノンは地中海に面した小さな国。中東にありながら、なんだか雰囲気が明るい。ヨーロッパのようだ。人々は英語よりはフランス語の方をよくしゃべっている。垢抜けている。両替をするために、銀行に行ったのだが、銀行員の女性は今までのような暑苦しい服装ではなく、胸元の開いたカラフルな洋服を着ている。思わず谷間を覗き見てしまう。その一方で、70年代の内戦の跡が今もって痛々しい。

 鈴木さんと進ちゃんと3人でベイルートを軽く散歩。「鳩の岩」なるものがある。ここがベイルートいちの名所だそうだ。その後、ビールを飲んだ。レバノンビールと言われるだけあって、洗練された味。ここに来て少し心が解放された感じだ。

 夜、ホテルに戻り、一階でエレベーターを待っている時のこと。他にも中年の男性が2人待っていた。後ろからやや年配と若い女性がエレベーターに近づいてきた。するとなぜか、先に待っていた2人の男性が退き、エレベーターに乗らなかったため、俺と後から来た女性の3人がエレベーターの個室に入ることになる。密室でちょっと緊張していると、年配の方の女性がいきなり俺の方に正面から近づき、卑猥なゼスチャーをしながら、「Fackin' Fackin' How much?」と言って迫ってきた。後から聞いたのだが、この安宿は売春婦御用達であったということだ。その時、もちろん断固として拒んだ。金をもらっても遠慮したい、など考えていると、もしかしたら「俺の体」がいくらかと聞いてきたのでないか(そんなはずないか・・・)。
(10/29)


                 
                        (70年代の内戦後)                                    (自転車のパン屋)

                  
                        (鳩の岩‐昼)                                         (鳩の岩‐夜)

【サイダからバールベックへ】

 結局、首都ベイルートでは一泊しただけで、翌日には南方のサイダという街に向かった。ダマスカスで会ったユーイチさんと2人でバスに乗っていく。サイダは落ち着いた漁港の街でベイルートとは違って、田舎臭さが漂っている。事実、港を歩いていると、魚を開いたような匂いが漂っていた。その日は、久々に贅沢して中華料理を食べる。本格派の中華で、しっかりと香菜も入っていて美味かった。

 翌日は、ベイルートを経由してバールベックに向かう。バールベックはレバノン杉とならんで、この国の見所である。大きな柱がダイナミックに立ち並んでいる写真をよく見る。バールベックはレバノンの東国境近くの山あいに位置するため、公共のバスではかなりの山越えをした。バスの中では、レバノンの軍人が何か話し掛けてくるが、英語ではなくフランス語。間もなく、目的地に着いて宿にチェックイン。レバノンいちの観光地だというのに、何の変哲もない質素な街だ。美味しいビールを飲んで、長距離移動の疲れを癒す。


 
その翌日は、レバノンのハイライトともなるバールベック。大きな柱が街中からも見える。起きて入場口に行くと、既に遺跡の入り口が開いている。入場料が結構取られるようだ。ユーイチさんと相談して、忍び込みに挑むことにした。遺跡の周りを歩いていると、壊れかけた塀がある。そこから順番に乗り越えて行くと難なく忍び込み成功。ただでの観覧はコストパフォーマンス最大なので、ものすごく楽しめたきがする。

 小一時間でバールベックを一通り見終え、再びシリアに戻ることになる。乗合のタクシー(セルビス)は車がいっぱいにならないと走らない。俺らは早く出発したいので、運転手を促すが、運転手も必死で客探しをしている。生活がかかっているだな
(10/30〜11/1)

                       
                       (サイダの漁師)                                  (街中からバールベックの柱を見る)

              
               (バールベックの神殿‐柱だけだがでかい)                             (バールベックの神殿)

【再びシリア】

 ウロウロしながらようやく客をいっぱいにしたセルビスは、例によって猛スピードで国境までたどり着く。その国境付近でバイクと車の衝突事故があったようで、道路に血が巻き散っている。怖いものだ。

 再びダマスカスのアルラビエホテルに帰ってきた。体調はすっかりよくなっている。この日、面白い人が来ていた。日本人なのだが、何でも、一昔前に流行った、片足で蹴りながら進む乗り物(サイクルゴーゴーと言うらしい)で中国からここまで来たと言うのだ。世の中、面白いことを考え、さらに実行してしまう人間もいるものだ。当然にもそんな進み方をしているので、いたるところで取材を受けてきたそうだ。しかし、意外と進むだけでなく、主要な観光地を押さえているところが凄い。彼曰く、カラコルムハイウエイが一番快適だったそうだ。そりゃまあ、下りだからいいが、登りのときはどうするのだろうか。

 翌日は、一人でダマスカスを出て、北へ向かうはハマだ。その途中で、クラックデシュバリエという十字軍の時代の美しい城を訪れる。何でもこの城は宮崎駿の「天空の城ラピュタ」のモデルとなったそうで、確かに丘の上に建っている城は見方によっては宙に浮いている感じがする。しかし、これほど美しい城は中東はおろかヨーロッパを探してもなかなか見つからないだろう。
 
 そして、再びバスに揺られ、夕方にはハマに到着。このハマは世界最大の水車があることで有名な街だが、俺たちバックパッカーにとってはもう1つ滞在理由がある。それはあまりに些細なことではあるが、パッカー御用達のリヤドホテルに泊まることだ。そのホテルはまだ新しく、部屋もきれいで豪華なフランスベッドが並べられてある。さらにシャワーが素晴らしくお湯の出がいいのだ。安宿だと、シャワーは水まではいかないまでも、大体ぬるま湯で疲れを最後まで洗い流してくれない。ここは真上から熱いシャワーが滝のように降り注いでくれる。結局、ハマでは水車と、歩いていける範囲のよく分からない古い城を見に行ったくらいで、メインは体休めとなり3泊してしまった。
(11/1〜4)

                
                  (クラックデシュバリエ)                                        (城の内部)

                
                            (肉屋)                                        (リヤドホテルにて)


               
                  (廃墟となった古い城‐時代はBC1頃らしい)                 (城には深い井戸がある‐怖い)


                
                      (ハマの世界最大の水車)                                   (水車のある風景)


【シリアを北上】

 3泊したハマを出て、シリアを北上する。トルコ国境近くの街、アレッポに向かう。バスで数時間、難なくアレッポに到着し、お目当てのホテルにチェックイン。日本人の女の子が2人ほど泊まっているようだ。一人はどうやら英語がペラペラ。頼もしい女性だ。

 これまでの旅は春から夏にかけてであったのが、もう10月で結構寒くなってきた。もう薄着はできないので、夜にバザールでジャンバーを買う。デザインは質素だが、割と温かそうなジャンバーをいい値段で買った。これで寒さに対して強気になれる。

 翌日は、ついにシリアを出る。川崎さんと同行しているが、午前中は別々に行動して、俺はアレッポ城を見に行く。アレッポの中央に位置し、どこからでも見えるこの街最大の見所だ。城内にはモスクやら劇場やらなんでもそろっており、さながら一つの街のようだ。門構えも立派で、中世はここで十字軍やモンゴルの侵攻を迎え撃ったといことだ。
 
 昼過ぎにバスに乗り、国境へ向かう。シリアの国境は難なく抜け、再びトルコに入国。パスポートのスタンプの余白が少なくなってきたので、国境の係員に余白に詰めて押してもらうように頼んだが、新しいページのど真ん中に堂々と押されてしまった。なんて意地悪なんだろう。ともあれ、再びトルコに入り、これからはひたすら東へ向かうと言うわけだ。
(10/5〜6)


         

                
                    (アレッポ城の正門)                                      (アレッポ城内)

                
                            (肉屋)                                          (ザクロジュース屋)





<トルコ(東)>

11月7日〜11


【バスでの移動】

 トルコに入国し、最初の街は国境からすぐのアンタクヤ。川崎さんと安宿に泊まり、しばらくお預けだったトルコ飯を食べに行く。ロカンタ、トルコパン、豆の入ったご飯が懐かしい。俺も川崎さんも結構感動した。世界3大料理というにはあまりに質素な気がするが、美味いもんは美味い。


 翌日はバスで一気に黒海の街、トラブゾンに向かう。トルコのバスは快適だ。ほとんどがベンツで道路もしっかりしているので、座り心地、寝心地は抜群だ。バスはアダナ、カッパドキアなどを経由して、翌日の朝方にトラブゾンに到着。
(11/7〜8)

【トラブゾン】

 トラブゾンはなかなか開けた街だ。商店街のようなものもあり、カメラや電化製品など、西欧並みの品揃え。この夜はガイドに紹介されていた安宿で川崎さんとシェアーした。芸達者な川崎さんとジャズの話を少しした。

 翌日、川崎さんはトラブゾンを発ち、一気にトルコ東の国境の街、ドゥバヤジットに行く。俺は、トラブゾンではなんとしてでも崖にへばりついた建造物、スメラ僧院跡を見たくて、もう一泊トラブゾンに留まることにした。川崎さんが部屋を出るので、ツインルームをシングルの値段で泊まれるようフロントに交渉に行ったが、どういうわけかやけに強気でNOの一点張り。出て行くぞの脅しも聞かず、結局、出て新しく宿を探さなければならなくなった。まあ、トラブゾンは宿がたくさんあるので、次のを見つけるのにさほど苦労はなかったが。しかし、その宿ときたら シングルルームなのはいいのだが、トイレを部屋に改造したに間違いなく、場所も廊下の隅だし、部屋の中もなにか臭うのである。おまけにベッドが部屋の3分の2を占めるほどの狭さ。一泊だけなのでこれで我慢するが・・・。

 部屋に荷物を置いて、早速、スメラ僧院跡を見に行く。バスの発着所に行くと、今はシーズンオフのためタクシーしか出ておらず、タクシー出行くと往復で50$も取られる。せっかく、トラブゾンに残っているのでスメラを見ないと意味がないので、久々にヒッチを試みることにした。郊外の方へ親指を上げながら歩いて行くと、一時間ほどで一台の車が止まった。車には若い男1人とおっさんが2人乗っている。あまり良いコンディションではないが、贅沢もいえない。スメラまで乗せてくれると言うのでとりあえず喜んで乗り込んだ。どこから来たかと問われ、「日本からだ」と言うと、3人して「グフフ」と不気味な笑いを漏らす。なんだか嫌な予感がしたのだが、今更降りるわけにもいかない。

 目的地のスメラに着いた。ありがとうを言って立ち去ろうとすると、いきなり呼び止められた。この車は実はタクシーなので50$払えと言うではないか。もちろん拒否。向こうは英語を理解できない。俺の方は怒りを表すために英語混じりの日本語で逆ギレした。周りの人にも助けを求めるが、誰も相手にしてくれない。万事休すだ。しかし、係員のにいちゃんが冷静に取り持ってくれ、ガソリン代として5ドルのみ払うことで、とりあえずその場は治まった。その後、そのにいちゃんからこっぴどく怒られた。なぜ、ヒッチなんかするんだ、あれがテロだったらどうするつもりだ、と。俺は何も言い返せない。言い終わると、にいちゃんは、「早く登って見に行け。美しいぞ。」と言って促してくれた。偽タクシーで腹が立ったが、そのにいちゃんには救われた。なんだか「感謝」したくなった。

 スメラは来てよかった。上に上がると、文字通り、桃源郷のような美しさだった。

 帰りは再びヒッチ。まったく懲りない俺。今度は陽気なラテン系のおじさんの車で、途中の休憩で踊りを披露されたくらいで、気持ちよくトラブゾンまで送ってくれた。

 その夜、例のトイレ部屋に戻ると、その階が妙に賑わっている。宿泊客が帰ってきたようだ。しかし、その宿泊客、皆、下着姿でうろつきまわっている。どうやらこの宿も売春婦御用達の宿のようだ。トラブゾンではロシア人の売春婦が仕事をしていると聞いたのを思い出した。ロシア人だけあって、皆、肌がキレイで美人ぞろい。廊下ですれ違うと、シミーズ姿で陽気に挨拶をしてくる。なんだかこっちが恥ずかしい。トイレ部屋でくつろいでいると、突然、ノックの音とセクシーな呼び声が聞こえた。おそらく同じ階のコールガールだろうが、さすがに出ることはできなかった。一瞬迷ったのも事実だが、日本人と分かっての美人局で、相手したが最後、丸裸にされそうな予感が上回ったので、無視した。相手もあまりしつこくはなかった。

 明日、ここを出て、ドゥバヤジット。皆に追いつくだろう。
(11/9〜10)

             
                 (苦労していったスメラ僧院跡)                                    (黒海を眺める)

                              
                    (トイレのような部屋)                                      (ケバブやのおじさん)


【ドゥバヤジット】

 トラブゾンでドゥバヤジット行きのバスを待っているとき、一人のおじさんが話し掛けてきた。何でも日本に行きたいのだそうだ。いろいろ話をしたあと、住所を教えてくれといわれた。断るのも面倒なので、ウソの住所を教えた。お礼とばかりに古着のジーンズをもらった。俺のジーンズが破れていたのでちょうどよかった。しかし、ウソを教えてズボンをもらうなんて俺も悪い奴やなぁ。まあこれも旅ということで。

 ドゥバヤジットに到着。ノアの箱舟が行き着いた場所と言われるアララット山が見える。富士山よりは高いそうだ。美しい。

 宿で、川崎さん、横井さんと再会した。もう一人ノブコさんという女性が加わり、この4人で明日、未知の世界、イランに入国する。
(11/11)






<イラン>

11月12日〜12月4日

【ついにイラン入国】

 イランに入国の日。実は、この旅に出る前は、イランは飛行機かなんかで飛ばそうと思っていた。かつてのイラン-イラク戦争やテロのイメージに加え、旅行となるとガイドもなくあまりに情報が少なかったのだ。しかし、イスタンブールに着くと、非常に多くの人がイランを抜けてアジアを横断してきている。話に聞くと、親切な人も多く、また、物価も安いので天国と言う人もいる。

 4人でドゥバヤジットからタクシーに乗り、国境に着く。結構列ができている。イランの国境では、酒、外国の音楽テープ、ヌード写真など没収されると聞いており、特にやましいことはないものの、緊張の瞬間だ。しかし、永らく待たされた割りには荷物検査もスムーズで無事、イランに入国することができた。そこから長くて緩やかな坂を下っていき、国境の街マクーに到着。バスターミナルに直行してテヘラン行きに乗る。バスを待っていると、あっという間に周りに人だかりができる。中には日本語のできる人もいる。なんだか旅がさらに濃ゆくなってきた。

 バスはトルコほど立派ではないが、まあまあ思っていたよりもキレイ。夜通しのロードの後、翌日の朝方にテヘランに到着。疲れた面持ちでお目当てのカザールシー・ホテルにチェックイン。近くのハマムで熱いシャワーを思いっきり浴びて疲れを流す。そしてテヘランに着いたら、と楽しみにしていた日本食レストラン「瀬理菜」に行く。料理人、従業員ともにイラン人であるが、雰囲気はほとんど日本の料亭。イランの物価からするとものすごく高い部類に入るのだろう。姿を見る1組のイラン人はものすごい上流階級っぽい感じだ。他に見るのは日本人のグループ。やはり日本食が恋しいのだろう。俺たちは照り焼き定食を注文。山盛りのご飯に、鳥の照り焼き、エビフライ、サラダにデザートとどれもビッグサイズで量も味も大満足。イランに来てこんな日本食が食べられるとは感激した!!、
(11/12〜14)

                
                       (国境を越える)                                (テヘラン行きのバス-雪が降ってきた)


【ハマダン】

 テヘランに2泊した後、イラン人にとっては随一の観光地、ハマダンに向かう。ここはイラン人が世界一と称してやまない鍾乳洞、アリサドル・ケーブがある。片道バスで6時間。到着して早速洞窟の入り口に行く。時間が決まっているようで、それまで、のんびりと待つ。観光地と言うものの、オフシーズンということもあり、人影はあまり見かけず、地元の小学生達が俺らを見かけてあいさつをしてくる程度。のどかだ。

 時間が来た。川崎さんと一緒にボートに乗り込み、鍾乳洞を進む。確かに神秘的で面白い。しかし正直、単調で、最後の方は飽きてきた。それでもイラン1の観光地(イラン人談)に片道6時間かかってこれたと言うだけで満足だ。その日はとりあえず、ハマダンの宿に泊まる。街は狭く、すぐに見て周ることができた。
 
 その夜、宿でくつろいでいると、突然、宿の主人が呼ぶ。何ごとかと行ってみると、コミテと呼ばれる治安管理人が俺たちを調べに来たのだと。とりあえず、パスポートを見せると、何ごともなく帰ってくれた。コミテは警察のようなもので、テロ防止など治安維持のために突然現れる。外国人なんかは訳もなく調べられることがある。

 翌日は再びテヘラン。
(11/15)

                  
                   (ボートに乗って鍾乳洞を突き進む)                             (ヤギ使いの少年達)


【ワールドカップ】
 ハマダンから再びテヘランに戻ってきた。いつものカザールシーホテルにチェックイン。今日はなぜだかイラン中が賑やか。ワールドカップのアジア予選で、こともあろうに日本対イランの対戦日だった。イランは戦後の日本のように街頭テレビが幅を利かせており、電気屋などの前のテレビに人が群がっている。日本とイラン。買った方はワールドカップ出場が決まる。4年前は確かイラクとの一戦で最後の最後で同点にされ、本当にあと一歩のところで出場を逃したのだ。ラモスなどは帰化してまでこの一戦にかけていたというのに気の毒を通り越して哀れであった。
 
 と言うわけで、サッカー大国のイラン以上に日本にしても盛り上がらざるを得ない試合だ。イランでは「ミウラ」が圧倒的に有名だ。しかし、この一戦ではカズこと三浦は途中で降ろされてしまう。それにはイラン人もビックリしていた。
 
 試合は日が暮れてから始まる。俺と川崎さんは仲良くなった日本語使いの電気屋でチャイを頂きながら観戦することにした。正直、敵国である俺たちがあの熱狂の中、街頭テレビで一緒に観戦するのは勇気がいる。とりあえずは身の安全を確保しながら観戦できるにこしたことはない。しかし親切な電気屋さんとて、今は敵味方の関係であるのには変わりなく、日本が点を入れるとこめかみに血管を浮かせながら本気で悔しい表情をするのだ。ここでは、さすがに大っぴらに喜ぶことはできない。結果はご存知の通り、岡部のシュートで勝ちが決まり、午後9時頃、待望の日本ワールドカップ出場が決まった。

 イラン中が大騒ぎ。交通ルールも完全に麻痺していた。川崎さんと恐る恐る街に出ると、半ば暴徒と化したイラン人が俺たちを見つける度に「お前は日本人か!」と詰め寄ってくる。しかし冷静な人も当然いるもので、そのような暴徒からのボディーガードを買って出てくれた。とりあえず、宿に戻るのが適切だ。しかし、宿に戻ったら戻ったでイラン人の宿泊客がからんでくる。さすがに少しは冷静で、「おめでとう」と言って握手を求めてきたりする。しかし散々泣いたのか、目が真っ赤なのだ。子どものように不貞寝している人もいる。ここまでの熱狂は阪神の優勝を除いては、さすがに日本で見ることはない。
(11/16)


【ホモに襲われた人】
 テヘランではビザの延長をする必要がある。内務省のようなところに行くと、既にイラン人でごった返していた。横井さんもノブコさんもいる。そして、久しぶりに新しい日本人と会った。片岡さんというのだが、彼もビザの延長のために列を作っている。初対面だが気さくな男ですぐに打ち解けた。しかし気になっていたことがある。なぜか唇の横に血球を作っているのだ。おおかた、何かにぶつかったのだろう勝手に思っていたのだが、しばらくして真相を彼の方から明かてくれた。

 どうやら昨日、イラン人と乱闘があったというのだ。経緯はこうである。彼は一人で旅行しているため、たまたま知り合った外人と部屋をシャーシている時、その外人が熱を出してぶっ倒れてしまい、気の良い片岡さんは、その外人が水を欲しがっているので調達しに外を歩いている時のこと。バイクに乗っているイラン人のにいちゃんにミネラルウォーターが売っている場所を聞いたところ、連れて行ってやるからバイクに乗れと言ってきた(そもそもイランの水道水は世界一安全と言われているので、ミネラルウォーターなど売っていない)。順応性のよい片岡さんは喜んでバイクに乗るのだがそこから悲劇かが始まったと言うことだ。

 水が売っているところと頼んだのに、連れて行かれた場所はなんとバイクにいちゃんのアパート。水をプレゼントしてくれるものと思い、入れとの誘いに乗ってしまい、完全に部屋に入るやいなや、ドアの鍵を閉められた。「ヤバイ」と思ったのも束の間、突然右ストレートを浴びせられ、ベッドに横倒しになってしまし、そのまま馬乗りになり、ズボンに手をかけてきた。片岡さん、その時とっさに出た言葉が、

「アイム・エイズ」

という不謹慎な言葉。バックパッカーの間に伝わるジョークなら、この後「ミー・トゥー」という言葉が返ってきて戦慄するのだが、さすがにそこまではならなかったということだ。しかし、次にとった行動は彼の悪運の強さを物語っている。「観念した」と言い、自分でズボンを脱ぐ素振りを見せながら、なぜかポケットに入っていた南京錠を取り出し、すばやい動作でベルトに装着したのだ。これでズボンを脱がされることはなくなった。しかし、それに気がついたイランのにいちゃんは再び激怒。またもストレートが飛んできたというのだ。さすがに片岡さんも怖くなったのか、「キス」だけで許してくれとのオファーを切り出したら、向こうもようやく納得したということだ。

 しかし、片岡さんの口にはストレートを浴びせだられた時に出た血が吹き出ている。そこで、口を拭くように促されたがにいちゃんの顔が近づいてくるに再び目が覚め、今度は泣き叫ぶように出してくれと懇願し、どうあら無傷で出ることができたらしい。最後まで諦めないことの重要さを教えてもらった。それから彼が俺たち対ししきりに言った言葉がある。それは、

「日本に帰ったら絶対に空手習いますよ」

と。よほど怖かったんだろう。ちなみに片岡さんとはこの後インドまで、何度か同行した。

 このテヘランでの滞在では、またも「瀬理菜」に行ってしまった。今度はすき焼きセットとキャビア寿司。キャビア寿司を注文すると、今の時期は上質のキャビアしかなく、メニューのものより高くなると言ってきた。おそらくぼっているだけだと思うが、話のネタとして2かんで800円のキャビア寿司を頼んでしまった。さほど美味いもんでもないと思った。
(11/17〜18)

              
                         (変なIBM)                                        (瀬理菜のキャビア寿司)


【マシェド】
 
イランは見所が盛りだくさんだ。国土も広く、ほぼ正方形なため、ルートがなかなか作りにくい。次はテヘランから西に、マシェドに向かう。マシェドはイマム・レザー廊のあるシーア派の一大聖地で、旅行者よりもイラン人の訪問が多い。そのため宿は非常に豊富。

 テヘランから夜行バスに乗る。イランのバスは夜行を使っても数百円。正直激安なのだが、こうも移動の度に夜行バスを使うのはさすがに疲れる。飛行機か列車を使いたいと思ったが、交通機関はイラン人にとっても安い部類らしく、便利な順番から満員になってしまう。したがって、一度も飛行機以外の乗り物に乗ってない。

 夕方に出て、15時間ほどバス。朝方にようやく到着。それから宿を探すのだが、たくさんあるのになかなか泊めてくれない。聖地だけに宿によっては異教徒を泊めないところもあるそうだ。でもまあ、根気よくあたると泊まれないわけでもないので、チェックインできた。ベッドに横たわって、背筋をぐ〜と伸ばす。川崎さんと2人して「素晴らしい」を言い合う。

 お目当てのハラムは街の中央にある。カメラなどを受け付けに預けて、服の袖を伸ばして入る。イスラムの国はどこでもそうなのだが、服装には厳しく、肌を極力出さないようにするのがマナーだ。外で短パンやノースリーブを着るなんてことはまずない。
 
 中に入ると既に異様な空気に包まれているのが分かる。胸に手をあてて涙をボロボロ流している男もいる。なんだか宗教の大きさを知らされた気がした。さらに中央にイマーム・レザーの棺があるのだが、それに触り口づけするために押し合いへしあいで棺に近づこうとする。異教徒の俺はさすがに近寄ることはためらわれた。

 何度も言うが、俺たち異教徒にはよく分からない世界だ。しかし、ものすごいエネルギーだけは感じ、なかなかそこから立ち去ることができなかったのも事実だ。こういう瞬間に出くわすのが旅の醍醐味だろう。
(11/19〜20)

       
                                                   (ハラム)


【ロングロード】
 
マシェドを発ち、バスで西に向い再びテヘランへ。しかし、もうテヘランには滞在せず、着いたその日の夜に南へ向かうバスに乗り換える。何もせずに一日テヘランにいるのは辛かった。とりあえず、広いテヘランを南北に歩けるだけ歩いてみたが、疲れるだけだった。バスは一路線、日本円で2円(!)程度なので、歩く意味がよく分からなかったが。バスターミナルで夜のバスを待っていると、イランのヤンキーみたいな連中からからまれたが別に何ともなかった。
 
 帰りのマシェド-テヘラン間はほとんど眠れなかったが、次のテヘラン-シラーズ間は割合眠れた。シラーズに着き、先ずは宿探し。チェックインすると、とりあえず横になって背中を伸ばす。快感だ。
(11/21)


【シラーズ】
 
位置的にはテヘランとシラーズの間にイスファハンがあるのだが、ルートづくりの都合上一足飛んでシラーズ。シラーズは世界遺産であるペルセポリスのゲートでもあるのだが、シラーズにも見所は少なくない。先ずはシャー・チェラグのモスクに行く。素朴でなんだか心が落ち着く。まるでお寺にいるときのような気分になった。中に入ると、ガラス張りキラキラした壁づくり。中央に棺があり、マシェドと同じように、手を触れ口づけをしていた。さすがに暴動はなかったが。

 夕方はシラーズの丘に登った。この旅では「登る」という行動が実に多い。

 イランはよく知られているように、79年のイラン革命以来、極度に反西欧化、イスラム化が進み、女性は伝統的なチャドルで顔を多い、酒も法律で禁じられている。人々はもっぱら宗教的な高まりを人生のメインとして生きている。しかし、79年以前まではお酒が飲めたのに、急に禁止されたら辛いだろう。密造や密輸している人も多いとは聞いているが、酒に代るものとしてなのか、イランには「お菓子屋」がやたらと多く、ヒゲをはやした大のオッサンが美味しそうに菓子をほおばっている姿をよく見かけた。味はどうなのだろうか。イランはもともと水がよいため、お菓子も水準以上の味。特に気に入ったのがシュークリームで、腹が減ったら何かとお菓子屋に入り、袋いっぱいシュークリームを買ったものだ。イランのシュークリームは最高で、10個位ならペロリと平らげていた。そんな俺たちのことを川崎さんと「シュークリーマー(シュークリームを食べる人)」と呼んで笑っていた。
 
 ペルセポリスに行った。学生の頃の歴史の教科書に出てくるペルセポリスに。読んで字のごとく、ペルシャの都市と言う意味だ。ペルセポリスは砂漠の中のオアシスのようで、高いところから見ると、なるほどと思う。でもまあ、教科書でよく見る馬の壁画なんか以外は、あまり興味をそそるものでもなく、もちろんペトラやパルミラの方が見所が多かった。

 シラーズではもう1つ仕事がある。それはビザの再延長だ。イランはトランジットビザ(通過のためのビザ)しか発行してくれないため、長期に滞在するためには、延長をする必要がある。シラーズの延長用のオフィスに行くと、横井さんたちもちょうど延長してるところだった。後から聞いたのだが、俺たちが延長に行っている間、シラーズのダウンタウンでは公開絞首刑があったとか。イスラム圏はこんなことがしばしば行われているため、日本にいると一般に怖がられることになる。本当は、平和を愛し、相手をいたわる、言わば「癒しの宗教」なのだが。
(11/22〜24)

              
                   (シャー・チェラグのモスク)                                    (シャー・チェラグの棺)

              
                  (シラーズの丘の俺)                                      (ペルセポリスと俺)

                              
                         (お菓子屋)                                         (ペルセポリスの馬)


【イスファハン】
 
シラーズからイスファハンへ。ターミナルからダウンダウンまでバスで1円。お目当てのアミール・カビール・ホテルに着く。ここはバックパッカー御用達の宿で、イスファハンにはここしかないと思われるくらい、人が集まってくる。
 
 イスファハンはイラン第二の都市で、「世界の半分」と言われていたほど歴史的にも由緒ある街だ。イランと言うと、何となく中東特有の殺伐とした印象を抱きがちだが、イスファハンに来ると、その思いは完全に払拭されるだろう。水と緑の街なのである。

 イスファハンには「アリさん」という我々の間では良い人で有名な日本語使いの絨毯屋さんがいる。早速彼を訪ねてみたら、待っていたかのように快く迎え入れてくれた。彼がなぜ良い人と言われるかは接してみた実によく分かった。旅行していると、商売人という人たちは何かと商品を売りつけようとしたり、ぼろうとしてきたりする。しかしアリさんは一言も「買え」とは言わず、楽しみながら絨毯の話やイランの話、日本の話をしてくれる。チャイも出してくれる。彼は日本に住んでいたこともあり、学んだというのだ。それは「損して得とれ」とうこと。そういうと俗な言い方に聞こえるかもしれないが、客に対してはとことん「give and give」の精神で接すると、見返りと言うか、結果として良き事が得られるということだ。日本人のマインドをよく理解している。確かに、もしも絨毯を買うのなら、遠くてもアリさんから買いたいと思う。事実、ツアー客らしき日本のおばちゃん達も、口コミで聞いたのか、アリさんの店を訪れ、実際に絨毯を買っていっている。「give and geve」。商売の基本を教えられた気がした。

 アリさんからは、おまけにイランの人間国宝と言われる絨毯職人を紹介してくれた。そこで国宝から一部始終絨毯の作り方を見せてもらうのだ。まだバックパッカーの身分なので、絨毯は買えないが、そのうちお返しをしたいと思った。

 イスファハンでは体を休め、リラックスできた。
(11/25〜29)

              
                     (イスファハン、王の広場)                                     (水と緑の街)

                   
                  (アリさん(左)の店で)                                            (人間国宝)


【ヤズド】
 
イスファハンでのしばしの休息の後、東の方へヤズドに向かう。5時間程の距離だ。イランは今のようにイスラム化される以前は、他宗教国家でとりわけ、ゾロアスター教発祥の地として知られている。ゾロアスター教徒のことを「ファルシー」と呼ぶことがあるが、これはペルシャから来た人という意味だ。そしてこのヤズドにはゾロアスター教の寺院と沈黙の塔と呼ばれる葬儀場がある。

 さっそく寺院に行ってみた。ヤズドは寺院があることからも、ゾロアスター教の聖地と位置付けてもよいのだが、イランにおけるイスラムの聖地と比べるまでもなく、ものすごく簡素だ。正直、「え!ここが?!」と思ってしまう。とりあえず拝観しに中に入ると、一人の男性がいた。話を聞いてみると、彼は生粋のゾロアスター教徒で、祈りを捧げに来たということだ。
 
 イランという国家はイスラム法で成り立っており、全ての規定がイスラムの教えを元にしている。したがって、ゾロアスター教は始めからあったとは言うものの、イスラムの勢いで肩身の狭い思いをしているようだ。例えば、葬儀で言うと、イスラム教は土葬であるのに対し、ゾロアスター教は死体を鳥に食べさせて葬る、すなわち鳥葬をそのアイデンティティとしている。しかし、鳥葬はイランの法律で禁止されているので、表立ってはこの50年間行われていないことになっている。そのゾロアスター教徒の男性は久々の非イスラム教徒に会って嬉しかったのか、しきりに愚痴をこぼして同情を買おうとしていた。ちなみにゾロアスター教とは日本では拝火教と呼ばれ、火をはじめ、土や水など自然の万物を崇拝している。寺院の中でたかれていた「火」はもう何百年も消えていないのだとか。 それにしても寺院はしょぼかったのもの、本物のゾロアスター教徒に会って話ができたのは来たかいがあったというものだ。

 寺院を出た後、かつて鳥葬が行われていた「沈黙の塔」に向かう。周りには土でできた家があるのみで、非常に殺伐としている。塔に登ってみると、ヤズドの全景が見渡せる。結構、ひたれる。しかし、かつて死体を並べた塔の中は閉鎖されていて見ることができなかった。相変わらず塔の上には鳥が舞っている。ひょっとしたら今でも隠れて鳥葬が行われているのではないか。

 宿に戻ると、横井さんとノブコさんと再会した。横井さんはスペインで暮らしていたそうでスペイン語がペラペラ。かっこいい。
(11/30)

                              
                       (旧市街の路地)                                       (ゾロアスター寺院)

                 
                       (沈黙の塔と俺)                                 (ミナレットが高い-ヤズドのモスク)

                
               (左から横井さん、川崎さん、ノブコさん)                               (バムに向かうバス)

【ケルマンからバム】
 
ヤズドを朝の6時半に発ち、ケルマンを経由してバムに向かう。ケルマンではバザールを見て、チャイハネ(喫茶店)でチャイを飲む。ケルマンのチャイハネはイランNo.1らしく雰囲気があった。バスの中ではずっとひまわりの種をつまんでいた。夕方にはバムに到着。
(12/1)



【バム】
 
イランの旅も終わりに近づいている。パキスタンの国境近くのバムという街だ。ここにはアルグ・バム(バム城)というイラン随一の見所がある。バックパッカーの間では凄いと話題になっていた。

 宿を出てアルグ・バムに向かう。途中の道では小学生にたくさん出会い、女の子も「ハロー」とっていあいさつしてくる。イランでは小学生といえど、チャドルを着るようになってからは女性の方から積極的にあいさつや話しかけたりするケースは少ない。この街は結構フレンドリーだ。到着。アルグ・バムはお城と街のセットの遺跡で、土でできた街だが、保存状態がものすごくいい。いくら歴史的に重要であっても保存状態が悪ければ、見る側にとってはあまり面白味がない。その点、バムは最高だ。300年前に放棄された死者の街と紹介されるが、今でも人が住んでいそうな、かつ不気味な雰囲気がある。街の住居には寝室や炊事場がしっかりと残っている。また、城から眺める街も最高だ。くまなく街を見た後、城の中のチャイハネで2時間を程本を読んだりボーっとしたりして過ごす。出た頃は日が暮れようとしていた。

 アルグ・バムもしっかり見たので、翌日にはパキスタン入りを予定していた。5時頃自然に目が覚めた。今日中にパキスタンに行くには夜明け前にはここを出ないといけない。何となくもう一日くらいはゆっくりしたいなぁ、と思っていたら目覚し時計で起きた川崎さんが先に言い出した。

「石田さん、バム、もう一泊しませんか?」

と。正直、天の声を聞いた気がした。心の中で「その提案、同意するにやぶさかでない」などとまどろっこしく言っているが、川崎さんには「そうしましょう」と即答。再びおやすみで、昼近くまで寝ていた。今日はすることもなく、シュークリームとみかんを買って宿に戻り、沈没体勢に入る。今日は、灰谷健次郎の「兎の目」という小説を読む。これは小学校の推薦図書にもあがっていたが、この年になって読むのは初めて。しかし読んで見てビックリ。なんと感動して涙を流しているのだ。異国で読むこんな本もいいものだ。

 イラン最後の夜はチェロケバブとトマトで締めくくった。明日は必ず出ようと、バスのチケットを買った。
(12/2〜3)

                    
                     (アルグ・バム)                                     (城の中のチャイハネで)


【出国】
 
予定通り5時に起きてチェックアウト。6時半のバスに乗ってザヘダンへ。ザヘダンはイラン人でも近づくのを嫌がる、非常に治安の悪い地域。マフィアが街を仕切っており、銃や麻薬の売買が密になされているとも聞く。どのイラン人からも素通りを勧められる。もっとも見所もないので、泊まる価値も最初からない。ザヘダンは今までの街とは雰囲気が違い、なんだかすす汚れた感じがした。国境までタクシーで行くのだが、誰もが法外な値段を吹っ掛けてくる。人相の悪い運転手がしつこく呼び込もうとする。最初は15,000リアルだと言ってたのが何時の間にか5,000リアルにまで引き下げられる。何となく根性が腹立たしかったので、これは徹底的に無視する。人のよさそうな運転手を捕まえ乗り込むが、すぐに変なことを言い出したので、金も払わず降りる。らちがあかないので、ポリスを信じて、タクシーを捕まえてもらう。国境まで3,000リアルで行くというので、乗り込む。しかし、歩いて戻れない場所まで来てから、10,000リアルに値上がりしたと言ってくる。頭が痛くなって、日本語で「はよ行け、ぼけ!」と怒鳴ってやる。検問に捕まった。その運転手はそこから先のパーミットを持っておらず、俺たちまで降りるはめにおまけにポリからはパスポートを取り上げられ、運転手に2人で25,000リアル払わないと返さないなどと言ってきた。相手はポリなので下手に逆らって面倒なことになるのは嫌なので、しぶしぶ金を払った。おそらく、ポリと運転手の山分けだろう。その地点からは軽トラの荷台に乗って国境まで行く。軽トラからも2人で5,000リアル取られる。国境で最初にしつこかった人相の悪い運転手から「いくら払ったのか?ざま〜みろ」のようなことを言われる。悔しかったので、笑いながら「お前の勝ちだよ」と言って肩を叩いてやった。

 最後の最後に嫌な思いもしたが、ようやく次のステージに進む。パキスタンの国境を越え、バスに乗る。バスは一番後ろしか空いてなく、補助席も全て満杯。外に出るにはシートの背もたれを伝って、人をまたいで進むしかない。トイレに行きたくあったらピンチだ。いざ出発。座席が狭い上に、道路が舗装されておらず、ゆれが激しい。イランと大違いだ。自分を励ます。
(12/4)





<パキスタン>

2月5日〜12月16日

【パキスタンに到着】

 バスは一晩中縦揺れ。おまけに窓が空きっぱなしなので、風がダイレクトに体にあたってくる。眠れる状況ではないが意識は朦朧としてくる。俺はジャンバーを頭から被って寒さを何とかしのいだが、川崎さんは窓際で何も被らず、目をつむってひたすら風に耐えている。大丈夫だろうかと心配したが、俺の方もかなりきつい状態だ。ある本によると、このイラン国境からパキスタンのクエッタまでの道を世界三悪ロードと言うらしい。それだけ過酷なロードだった。

 意識がだんだんとなくなってくる自分がいるのだが、空が微妙に薄明るくなってきたことを感じ始めた時に、バスが止まった。ようやくクエッタについたらしい。順番にバスを降りていく。そとに出るといっそうの寒さが直撃する。ひとまず茶店に入ってチャイをいっぱい。熱いミルクティーが出てきた。その美味しいこと。救われた思いで3杯も飲む。

 辺りが大分明るくなってきたので、オート3輪で駅まで行く。そこからは歩いてお目当てのムスリム・ホテルに。シャワーを浴びて洗濯。ベッドに横になる。昼はラーメン、夜はレストランで野菜カレー、そしてお茶は甘いミルクティー。食べ物が変わると旅の雰囲気もガラッと変わる。パキスタンはなんだか俺に合っている気がする。
(12/5)

             
                       (クエッタに到着)                                           (茶店)

【モヘンジョ=ダロ〜サッカル】

 昨夜のバスがこたえたのか、完全に熟睡して快適に目覚めた。列車のチケットを買いに行き、昼過ぎに乗り込む。2等の自由席しか残っていなかったが、荷物を置くスペースが空いていたので、俺と川崎さんはそれぞれ上がって、横たわる。下からパキスタン人が「ジャパーニー、ジャパーニー」とうるさい。珍しいのか視線をずっとこちらに合わせてくる。お返しに写真をとってやると無邪気に喜ぶ。

 モヘンジョ=ダロには何時つくのか分からないので、結局一睡もできないまま、朝の4時頃、到着。駅に行くと、既に駅員がいて「ウェルカム」と言って出迎えてくれる。しばらくするとタンガーと呼ばれる馬車が来る。バス停まで行くが、なぜだか駅のおっちゃんも一緒に乗り込む。単に家に帰るの便乗しただけのよう。タンガーのおやじはなぜかご機嫌で、さらにモヘンジョ=ダロまで30ルピーで行ってくれることになった。これはぼっていない。喜んで乗っていく。

 モヘンジョ=ダロに着いた。こんな朝っぱらから観光に来ているのは俺たちくらいしかいない。貸切の気分だ。これは中学校の歴史の教科書でもおなじみの沐浴所がある。4,000年前の最古の都市計画に基づく都市国家。歴史の大きさにひたりながら朝日を迎える。

 太陽が全て出きったところでモヘンジョ=ダロを後にし、近郊のインダス川に接するサッカルという街にバスを乗り継ぎ向かう。昼頃に到着し、ホテルにチェックインして体を休める。

 翌日は川崎さんが体調が悪いと言うので、俺も喜んでもう一泊する。ここを出発すると、24時間列車の旅が待っているので、正直ブルーだ。昼頃、列車のチケットを買いに行くが、寝台は全て満席でがっかり。暗い気分のまま駅を出ると、腹が減ってきたので屋台で羊の頭のぶった切りを食べる。味はまあまあだが、衛生面がちょっと心配だ。夜はカレーとナン。インドが近づいてきた感じがした。
(12/6〜8)

             
                        (列車の中)                                          (タンガーに乗る)

                   
                     (モヘンジョ=ダロの朝)                                         (沐浴所)


【列車ロングロード】

 サッカルを出て一気にラワールピンディまで行く。丸一日以上かかる。サッカルを出てローリーという駅で小休止。これからの列車の旅に備えてトイレに行ったが、これが素晴らしいトイレ。うんこがそのまま何重にも積み重なっていて前衛的なアートを感じさせる(わけない)。3時に列車が出る。それまで駅で待機。

 車内はものすごく寒い。クエッタまでのバスと同じように座ったままジャンバーを頭から被って寒さをしのぐ。ガタガタと車輪の音を聞きながら意識を眠りの方向の持っていく。どれだけ眠れたか分からないまま、空が薄明るくなる。予定では朝5時にラホールに着くはずが、4時間遅れて9時に到着。ラホールでは俺たちの列車が切り離されたので、別のエコノミーに移る。しかし、座席は満杯。6時間も立ちっぱなしは辛い。川崎さんはまだ体調が良くなっていないのでなおさらだろう。金を払ってでもAC(エアコン車)に乗ろうということになり、無理矢理乗り込む。ACは座席が柔らかく、人も少ないのでゆったりしている。なにより温かい。エコノミー車両では絶えず周りの視線を感じていたのが、ここではそんなことはない。階級が完全に分かれている。川崎さんは完全にダウンで、寝台の棚に堂々と横になっている。俺は下の座席で本を読んだり、寝たりする。途中何度か車掌が切符のチェックに来たが、俺たちはノーチェック。日本人というパスポートのなせる技か、結局、エコノミー料金でのACキセルに成功。3時にラワールピンディに到着。24時間以上はたっぷりかかってしまった。ラワールピンディではポピュラーインというお馴染みの宿があるのだが、俺たちはホットシャワーのでるちょっといいホテルに泊まる。それでも300円程度。パキスタンにしては高いが、川崎さんの体調もよくないので、泊まることにした。なるほど結構いいもんだ。

 その後、街に出て日本に電話をかける。イランでは葉書も出していなかったので、親も心配しているだろう。電話にはオカンがでた。やはり心配させていたようで、あとちょっと連絡がなかったら日本大使館に連絡しようとさえ思っていたらしい。大げさだ。

 夜はレストランで鳥レバースープにライス。めちゃくちゃ美味かった。
(12/9〜10)

            
                    (ローリ駅で出発を待つ)                                  (ラワールピンディのスナック屋台)


【ラワールピンディ】

 超熟睡。ロングロードのあとは必ず熟睡できる。今日はラワールピンディの隣の首都イスラマバードまでバスで行き、日本大使館で手紙を受け取る。イスタンブールからの葉書に、パキスタンの大使館の住所を書いておくったのだ。昼過ぎに大使館に到着。嬉しいことに手紙は10通来ていた。オランダで住所録を落して、郵便局付けで適当に出していたのが、ほとんど着いていたようだ。日本の郵便システムは優秀なもんだ。何回も何回も読み返した。日本に帰りたくなってきた。

 宿に戻ると、ダウン中の川崎さんが目を覚ましたところで、なんだか変なことを言っていた。俺がいない間に、部屋中にドラゴンが舞っていて、宇宙人が7人俺のベッドにいたのだと言う。その宇宙人が、ペットボトルの水をイッキ飲みして20分後にトイレに行くと具合が良くなる言うので、そのとおりに実行していたのだとか。川崎さんイランで風邪薬を大量に買い込んでおり、具合が悪いからと言って、その都度必要以上に飲んでいた。その副作用で幻覚を見たのだろう。しかし、宇宙人の忠告が聞いたのか、翌日には一人で葉書を出しに行き、こってりした中華料理まで食べに行っていた。

 ところが、その翌日は再び宇宙人を見たそうで、さすがに自分から病院に行くと言い出した。俺も付き添ったが、医者は2人とも女性で、パキスタン人とは思えないほど実に垢抜けていた。結局薬をもらっただけで、特別な診察もなし。注射の一本でもうてば気分的にも落ち着くのだが。

 ポピュラーインに遊びに行くと、鈴木さん、横井さん、片岡さんがいた。ここに来てようやく皆と再会した。
(12/11〜13)


【ラホール】

 川崎さんはまだ辛そう。でもさすがにこれ以上ここにいるわけにも行かず、今日、ラホールに向かうことにした。当初は北上してギルギットやフンザに行くつもりでいたが、今は季節的にコンディションが良くないらしい。結局、元の道を戻ることに。今度は最初からAC車を購入。ゆっくりと横になりながら進み、ラホールに着いたのは日が暮れてから。駅を出てすぐにオート3輪に飛び乗って、YWCAに向かった。ラホールの宿は一部の外資系の高級ホテルを除いては、安全な宿がほとんどないと聞く。ウソかマコトか忍者屋敷のように壁が反転して、寝ている時に従業員から襲われることもあるとか。したがって、ラホールではバックパッカーのほとんどがこのYWCAに泊まる。正直ってキレイではないが、到着したのが遅かったからか、ベッドは全て満杯。仕方なく、離れの倉庫の床に寝る。川崎さんは死にそうな顔をしている。彼を残して、合流した片岡さん達と夕食にいいく。カレーとナン。
 
 朝、ベッドが空いたので先ずは川崎さんをそこに移した。しかし川崎さんはちょっと普通の風邪なんかではなさそうだ。YWCAの隣に病院があったので、付き添っていくことにした。日本人が来るのが珍しいのか、何となく意味のないところに連れて行かれたりして、真面目に診察しようという気配がない。川崎さんも怒る元気がないようだが、ちょっと命に関わることかもしれないので、今度ばかりは俺も真剣に診るように訴えた。なんせ白目がまっ黄色になっているのだ。ちょっと偉そうな医者を無理矢理呼んできて、「彼の目が黄色だぞ!!」と真剣に言うと、ようやく向き合ってくれ、目をじっくりみるや突然、血相が変わり、彼を病室に連れて行った。本格的に要検査で、今から至急検査に入るのだと。ようやくのことで俺もとりあえずはホッとした。しばらく時間がかかるというので、俺はしばし病院を出ることにした。大事でなければいいのだが。

 俺と片岡さん、横井さんはラホールの一日観光に出た。ダウンタウンで、バザール、博物館、モスクなどを見学。インドの国境の街だからか、これまでのような端整のイスラム国家という雰囲気がほとんどなく、インド文化圏の雑踏という感じだ。いよいよインドが近づいてきたのだ。
 
 夕方、YWCAに戻ると、川崎さんは病院から戻っていた。しかし、ついに入院を宣告されたようだ。荷物を整理しに来てすぐに病院に戻らなければならないのだと。俺も付き添った。病院に入るやいきなりベッドに運ばれ、おもむろに点滴を突き刺されてしまった。彼を病院に残すのは忍びないのだが、しばらく付き添った後、俺は一人で飯を食いに行く。宿に戻ると、横井さん達が戻っていた。そこからどういうわけかJAZZ講座になった。これまでも、会う旅人にJAZZが好きだと言うと、ほとんどが関心を示してきて、お勧め盤を教えるのだった。JAZZという音楽は皆、どこか気になる音楽だったのだが、聴くきっかけがないのだと口を揃えて言う。そんなわけで、皆と語り合い就寝したのが夜中の2時。

 翌日も川崎さんを見舞いに行った。しかし、別の病室に運ばれており、おまけにたくさんの医者が彼を取り囲んでいたので会うことはできなかった。ちょっと心配だ。俺たちの方は、明日のインド行きに備えてゆっくりと休養を取ることにした。YWCAのベランダで本を読んだりして、まったりと過ごした。宿の近くにはナン屋があり、片岡さんの持っている蜂蜜をつけて食べると最高。ここのナンは今まででベストのナンだ。

 夕方、再び川崎さんに会いに病院に行った。すると病室で点滴を打っていた。本当にしんどそうだ。付き添いのソーシャルワーカーに病名を聞くと、案の定、「肝炎」だった。肝炎でもいろいろあるのだが、カルテを見せてもらうと「A」という文字があったので、A型肝炎なのだろう。その付き添いの人はしきりに危険な病気だと言っていたが、俺は逆に少し安心した。川崎さん本人には悪いが、「変な病気」でなかっただけ幸いだ。A型肝炎ならこれまで会った旅人の中にも何人もかかった人がいた。赤痢、マラリアと並んでバックパッカーの職業病のようなものだ。とりあえず、薬を飲んで安静にしていれば治る病気なのだ

 パキスタン最後の夜は豪勢に行こうと思っていたのだが、なんせバックパッカーの豪勢なんてしれている。チキン、スープ、サラダで100ルピー。明日はついにインドに入る。3年前に始めて行って嫌いになったインドに。
(12/14〜16)

            
                     (バドーシャイ・モスク)                                     (ラホール博物館)

            
                      (ラホールの雑踏)                                  (横井さん-YWCAの屋根裏部屋)

                             
                     (鳥をさばくおっちゃん)                                     (最高のナン屋)