4.アジア編


<インド>

12月17日〜1月6日



【インド入国】

 今日はついにインドに入国。横井さんと片岡さんと3人で入国する。本当は川崎さんも一緒のはずなのだが、入院してしまったので、やむを得ず残していくことに。朝はいつものナン屋で朝食をとり、川崎さんのお見舞いに行く。これで最後になる。川崎さんの枕もとには「ロビンソン・クルーソー」が置かれてあった。俺たちがいなくなると、お見舞いに来る人間もいなくなる。ロビンソンさながら、ラホールの病院という無人島に取り残されてしまうのか。病院を去るのに後ろ髪引かれる思いだった。

 さて出発だ。バスで行こうと思っていたのだが、3人なのでタクシーで行くことに。30分ほどで国境に到着。インド‐パキスタン国境はものすごく悪名が高い。国境の係員から金を抜かれたり、因縁をつけられたりと何かとトラブルが起こるらしいのだ。パキスタンの国境を抜けるとき、早速、「俺にギフトはないか」と言われ、雰囲気が高まってきた。この国境は完全に抜けきるまでにいくつかのチェックポイントがあるらしい。前にいた外人が荷物を大きく開けられ、中のものをひっぺがえされている。同じことをされるのかと思いきや、ちょっと見せるだけすんだ。しかし、ペットボトルに入れていた洗剤を取られてしまった。どうやら「白い粉」は良くないのだとか。パキスタンの出国スタンプを押してもらい、次はインド。健康チェックのスタンプを押し、次に入国スタンプ。そして外貨申請。ここで戦いが始まると思ったが、何もなくてちょっと拍子抜け。いつの間にか国境を通過していた。インドルピーに両替してチャイで一息。スパイス入りのチャイでこれまた美味い。チャイはこれまでよりグレードが上がったようだ。オートリクシャー、バスと乗り継いで、シーク教徒の聖地、アムリトサルに到着。礼拝者用の無料の宿泊所に泊まる。ここは宿代も夕食もただ。夕食は大きな体育館のようなところでカレーとチャパティ。思ったよりも美味かった。

 ゴールデン・テンプルの寝床は今ひとつ寝心地が良くなかった。部屋には俺たち3人と白人が2人いる。朝もただ飯。カレーとチャパティでおかわりも自由。白人は興味本位で行ってみたのはいいが、一口食べてすぐに出て行った。俺はチャパティを5枚もおかわりした。3年前にインドに行ったときはインド料理が不味くて仕方なかったのに、今回は結構食える。旅で味覚も変わってしまったのか。一日でアムリトサルを見終える。シーク教徒は、常にターバンを巻いており、髪の毛、髭をそってはいけないらしい。俺たちもゴールデン・テンプルでは頭に布を巻きつけられた。

 そう言えば今日は4日ぶりにシャワーを浴びた。ラホールでは水が出なかったので浴びることができなかったが、ここは集団の水浴び場がある。もちろん全裸にはなれないが、頭を洗えたので気持ちよかった。そして昼もただ飯。夜もただ飯。
(12/17〜18)

 
                                     (ゴールデン・テンプルの俺)                                 (無料宿で寝る俺)

【デリーに向かう】

 朝、5時に起床。3人でリクシャーに乗り、駅に向かう。6時20分の出発まで時間がなく急いだが、駅に着いてみると、俺たちの予約した列車は8時間遅れだと。空いていたら来た列車に乗っていいと言うので、しばらくチャイを飲んで時間をつぶした。11時過ぎに列車が来た。自由席になるので、席の取り合いになると思いきや、なぜか2等なのにガラガラだった。乗り込む。

 
 列車の旅は3人なので、バカ話をしながらあまり退屈をしなかった。なぜか車内でファッション・ヘルスの話になった。横井さんが結構詳しく話すもので、俺と片岡さんは下半身がピクついた。俺たちはなんの話をしているのだろう。異国の列車内で。

 しかし、しだいに口数も少なくなっていき、3人とも疲れを見せ始めた。夜の八時頃、人がたくさん乗ってきて、俺たちの座席が窮屈になった。鬱陶しいと思って、ここはどこかと聞いてみると、デリーに着いたのだと。急いで降りなければ。出口まで人で埋まってたので、人の肩や荷物を踏みつけて降りる。
オートリクシャーでデリーの安宿街に行き、ナブラング・ホテルにチェックイン。3人でドミトリーを借り切る。長い一日だった。
(12/19)


【デリー】

 デリーではちょっとゆっくりしたい。デリーは観光客が多いためか、結構、いろんな食べ物がある。俺たち的には中華が一番無難だ。食べるものに迷えば、フライドライスかフライドヌードルを注文すればよい。しかし、せっかくなのでインドの定食、ターリーを食べるのがいい。結構美味く、デリーでは何度も食べに行った。

 デリーに来てから幾分体調が悪い。前回、インドに来た時は8月の雨季で暑かったが、今回は逆に冬で寒い。インドというと暑いイメージしかないが、北インドは日本の冬並みに寒いものだ。毎晩シュラフの中に頭まで潜り込んで寝ている。起きるのも辛いので、朝はしばらく芋虫状態。バザールでセーターを買った。

 インドには最近マクドナルドができたと言うことで、興味本位で行ってみた。場所はダウンタウンから結構離れており、大使館などがある高級住宅街にある。バスを乗り継いでいってみた。確かに、ちょっとハイソな感じが漂う場所にある。周りにはスーツにネクタイ姿も結構見かける。マクドナルドに入ってみた。なんと、周りの客は英語を話しているのだ。英語はインドの公用語なので珍しくもないのだが、日常的にはその土地の言葉、ここではヒンズー語をしゃべるものだ。インドのマクドナルドは先進国の香りのする上流階級専科のようだ。ちなみに、メニューはインドらしく、ハンバーグはビーフではなくマトン、そしてベジタリアン・メニューなるものがある。この辺りは文化をしっかり維持していて安心した。

 デリーの後は、アグラからバラナシに行く。そのためにチケットを買いに行ったときのこと。今のシーズンはちょうど日本人の観光客が来始める時期で、初々しい旅行者を結構見かける。チケット売り場でもものすごいテンションで、大声でインドの素晴らしさを話り合っている。彼らはツアーで来て、自由プランを利用して、自分でチケットを買いに来ているのだとか。そのことを声高に自慢している。中にはたまたま会ったバックパッカーに安宿に連れて行ってもらい、そこで聞いた話を自分のことのように話している人もいる。俺たちはその会話を聞きながら、半ばバカにした風にお互い目を合わせるのだが、心から休みを楽しんでいる彼らがちょっと羨ましい気もした。俺たちときたら、既に旅に飽きてしまい日本に帰る話ばかりしている。

 沈没中に本を読んだ。イランで読んだ灰谷健次郎の本で、今度は「太陽の子」だ。これも一気に読んでしまい、またも感動で涙を流してしまった。登場人物の台詞で「人を愛すると言うことは知らない人生を知るということだ」という言葉に胸をうたれる。旅をしている今は、なんとなくその辺のことが分かるような気がした。久々にクラリネットを出して、部屋で吹いてみた。いい音が出る。インドで流行っている映画の主題歌のフレーズを吹いてみたり。気分が良くなってきた。

 クリスマス・イブがやってきた。男3人でクリスマスを祝うことにした。3人でケーキまで買ってきた。夜、いつものカレーを食べてきた後、部屋に戻って3人でメリー・クリスマスを言う。彼ら2人はハーモニカを持っているので、一人一曲ずつ披露することに。俺はもちろんクラリネット。ケーキは不味かったが心なしか楽しいクリスマスになった。明日はようやくデリーを出る。鈴木さんは南に向かったし、横井さんともここでお別れになる。

(12/20〜24)

                
                     (オールドデリーの雑踏)                                   (ターリー(カレー定食))

                     
                (インドにしかないベジタリアン・バーガー)                       (横井さんと片岡さん‐クリスマスでハーモニカ)


【タージマハル】

 デリーを出る。片岡さんと2人になり、列車でアグラに向かう。意外と早く着いた。駅に着くやタクシーの呼び込みがやってきた。しかし口では「さよなら!」と言っている。誰かにウソの日本語を教えられたのだろう。そう言えば、これまでもウソの日本語を結構聞いてきたものだ。「これ高い」とか「これバッタもん」とか「ラクダ危ない」とか。悪い奴もいるもんだと思いながらも気持ちは何となく分かる。アグラはインドいちの観光地なので、そのための対策はとられており、タクシーはプリペイドカード方式になっている。相場は他より若干高いが、料金交渉の体力を使わなくていいので助かる。

 タージマハルを見に行った。先ずはその白さや形の美しさよりも、その大きさに驚いた。空が曇っていて、ちょっと残念だったが、十分楽しめた。

 今日の夜はアグラには泊まらず、そのままバラナシに行く。それまで時間が結構あるので、どうしようかと考えていると、ちょうど別の日本人に会い、彼のホテルのレストランに行くことになった。彼は19歳とまだ若いがドラッグばかりやっている面白い男だ。LSDをやって怖くなったらしいが、それもで懲りずにドラッグを求めて旅している。というか、ドラッグは目的ではなく、向こうから自然とやってくるらしい。そんな男もいるもんだ。そのホテルでは思わぬ良いものを手に入れた。遠藤周作の「深い河」だ。これは人から勧められていたのだが、まさにこれから行くバラナシを舞台にしているのだと。ホテルの本棚にあったのを、俺の持っている司馬遼太郎と勝手に取り替えてきた。それもありだ。

 5時にホテルのレストランを出て、バスに乗りトゥンドーラという駅まで行く。その駅からバラナシのあるムガールサライまで行く。4時頃着くので深く眠ってはいけない。「深い河」でも読んでおこう。
(12/25)

                 
             (タージマハル)                           (インド人の観光客)


【バラナシ】

 予定通り4時にムガールサライに到着。車内で本も読み終わったのでいよいよバラナシに突入や。駅のホームに降りると日本人の女性が素焼き茶碗でチャイを飲んでいた。トモミさんといい、俺たちはすぐに意気投合して一緒にバラナシに向かうことになった。バラナシは3年前に来ているので2回目。当時はものすごく嫌いになったが、今はなぜか楽しみでしょうがない。最近、ちょっと沈んでいた旅のテンションが復活してきた。バスに乗り、バラナシまで一時間。そこから街に向かうのだが、リクシャーやらタクシーやらがわんさと寄って来る。心がウキウキする。10ルピーでダウンタウンまで行くが、途中で10ドルに変化する。面白い。結局一人5ルピー払ってダシャーシュワメード・ロードに到着。見覚えのある路地に入って行く。お目当ての宿は3年前も泊まったヴィシュヌレストハウス。しかし、満室。隣の久美子ハウスを訪れると、おやじのシャンティが高いテンションで出迎える。片岡さんとトモミさんは一泊だけならしたいというので、俺も同意する。実は3年前も久美子を訪れたのだが、なぜかシャンティに嫌われてしまい、門前払いされた思い出があるのだ。まあ、いいか。部屋に入ると案の定シャンティがいろいろ規則を言ってきた。うるさい。上に上がると蜘蛛の巣だらけのドミトリー。トモミさんいわく、「汚いじゃなくて不衛生」だと。納得。

 一眠りしてから、トモミさんとガートに出た。葉書売りの少年がたくさん寄って来る。日本語もペラペラ。誰もが「神様買うか」と言ってくる。なんでも、大沢たかお出演の「深夜特急」で、このガートでの場面で、同じように葉書売りの少年がやってきて、印象的な台詞として「神様買うか」が使われたそうな。その出演した少年は、噂によるとかなりのギャラをもらったようで、それが理由かはわからないが、皆この台詞をはくのだと。正直、3年前とは雰囲気が変わった気がした。また、「葉書買うか」に対し「NO」と言うと、「なんでやねん」と返ってくるのも定番だった。それにしてもインドの少年は凄いもんだ。旅行者と話をするだけで、ヒンズー語、ベンガル語に加え、英語、フランス語、イタリア語、日本語をほとんどの葉書売りの少年がマスターしている。将来の夢は何かと聞くと、「お土産屋」だと。日本でそれだけ話せればエリートなのに。

 久美子に帰ると、片岡さんとトモミさんは同じ宿泊客と完全に打ち解けていい雰囲気になっている。
(12/26)


               
                       (久美子ハウス)                                      (ビシュヌレストハウス)


【バングラッシー】

 片岡さんとトモミさんは久美子ハウスが思いのほか気に入ったようで、連泊すると言い出す。おまけにネパールのポカラで年を越すために29日のここの連中と出て行くというのだ。俺はバラナシで年を越すと決めていたので、とりあえずは俺だけお目当てのヴィシュヌに移動する。ドミトリーにはは満室だったので、レセプションで一人でいた西さんという男性とツインをシェアーすることにした。

 バラナシは3年前とやはり雰囲気が変わっている。この間に例の「猿岩石」が放送され、それを見た学生等がこのバラナシに殺到したらしい。春休みなどは、泊まる場所がなくて駅に集団野宿している風景もあったそうだ。テレビの影響はすさまじいものだ。そのような訳で、バラナシはすっかり日本人向けのものが定着し、レストランに入ると日本の歌謡曲をかけられる。メニューも何とか定食に、オムライス、カツ丼などが並ぶ。味はそれなりだが、食べられないものでもない。それよりも、3年前はマサラの味が嫌でバナナばかり食べていたが、今回はそんなこともなさそうだ。それはそれで寂しいもんだ。

 西さんと一緒にフラッと、中央の大通りにでる。すると四つ角のところにラッシー屋を発見。これがかの有名なバングラッシー屋だ。バングラッシーとは大麻の樹脂入りのヨーグルトのこと。ライトからヘビーまで3段階ある。俺と西さんはミデアムを飲む。急いで宿に帰って、ベッドに横になる。一時間ほどして、眉間のあたりが熱くなり、しだいに全身にそれが回ってくる。時折、ガクンガクンと体の感覚が揺れ動く。それが大きな山を描いたり小さな山を描いたりする。耳元には高い周波数の電子音のようなものが聴こえてくる。気持ちがいい。そのままゆっくりと眠りに入った。次に目が覚めたと気にはバングは体から抜けていた。

 翌日もバングラッシーを飲みに行く。飲んだ直後からフラッと足元が揺れる。急いで宿に戻り、再びベッドに横たわってキマるのを待つ。シュラフに入らなければならないのだが、キマりつつある中、なかなかの重労働。何とかシュラフに入った時は、いい感じにトリップが始まった。
 
 その翌日も飲みに行く。近くの宿でインド音楽のライブがあるというので、開始一時間前、それにあわせて飲むことにした。演奏が始まる頃には眉間が既に熱くなっている。小さな10畳ほどの部屋で2人の奏者がタブラとサロードでインプロビゼーションを繰り広げる。俺は既にキマっているので、音やリズムが手にとるように分かる。素晴らしい。

 そして翌日もまた飲みに行く。今日はちょっと押さえてライト。しかしキキ方はいつも以上。体がキマり方を覚えたようだ。今日は宇宙旅行をして何時の間にか眠りに入っていた。翌日、西さんと互いにキマり具合を報告する。彼もなかなかだったようだ。
(12/27〜30)



【年越し】

 今日は大晦日。ついにインドで年を越すことになった。しかし毎日バングラッシーばかり飲んで、特に何をすると言うわけでもない。強いて言うと、チャイ飲んで、葉書書いて、本を読んで、話をして、夜にバングラッシーを飲みに行く程度。時々、ガートに降りて死体が焼けるの見る。何て素晴らしい日常なのだろうか!

 しかし、大晦日なので何かしなければと思い、日本に電話をした。ただそれだけ。

 ついに年を越した。実は大晦日の夜はバングラッシーを飲みに行かなかった。正月だからと言って何をするわけでもない。が、今日はボートに乗ってみた。その夜はライブにあわせて飲みに行ったが、ライブはキャンセル。部屋で線香を焚きながら、キマるのを待つ。
(12/31〜1/1)

              
                       (ガートの洗濯物)                                      (ボートに乗る)

   
                                             (ガンガーの夕暮れ)


【インド音楽】

 正直言って、ここに来てほぼ毎日バングラッシーを飲んでいる。これはもちろん日本にはない。インドのこの州では大麻は吸うのは違法らしいが、食べたり飲んだりするのはよいとのこと。あまり変わらん気もするが。ある旅行者が言ってたのだが、発展途上国で大麻に対して寛容なのは食べ物が不味いからだと。なるほどそれもわかる。
 
 食べ物もそうなのだが、音楽となるとこれまた凄いもんだ。今日もバングを飲みに行った。8時頃からスタート。俺は例によって眉間を熱くしている。先ずはタブラとシタールのデュオ。シタールが先行してメロディーを奏でる。インド音楽は西洋音楽とは全く異なるリズムや音階を使うのだが、それらが手にとるように分かる。次にタブラが加わり、リズムがいっそう鮮やかになる。それにしてもこのタブラという楽器は一体何種類の音が出るのだろうか。

 休憩時間になり、珍しくチャイが振舞われた。その時は完全にキマっている時なので、そのチャイの美味いこと!!

 次のステージはタブラとオーボエのような縦笛。このステージが更に凄かった。8分の9拍子あたりの3連調のテーマを奏でたと思うと次口とインプロバイズされていく。あたかもコルトレーンが「マイ・フェイバリット・シングス」を題材にしているように。コーラスを化される度に、フロントのブロウが激しくなる。最後は完全なるフリーインプロビゼーション。俺の最も好きな展開だ。コルトレーンもおそらくマリファナを吸いながらこの演奏を聴いたのだろう。3時間ほどがあっという間に経ち、頭をこだましている言葉が「It's cool」。帰りの道はいつもの道なのだが、ファンタジーの世界のように美しく感じた。西さんも完全にイっている。



【本】

 夜はバングを飲んでインド音楽のライブに毎日だが、昼はもっぱら本を読んでいる。日本語なら手当たり次第に読んでいる。ここで読んだ本は、遠藤周作「深い河」、坂東眞砂子「桃色浄土」、なだいなだ「こころのかたち」、五木ひろゆき「考えるヒント」、城山三郎「落日燃ゆ」、笹子勝哉「銀行総務部」、高村光太郎「智恵子抄」、村上春樹「国境の南、太陽の西」など。面白いものもあればそうでないものもある。


【バラナシ最終日】

 ちょっと長く居過ぎたようだ。そろそろ出なければいけない。バラナシ滞在の後ろの方の日、バングラッシーを飲んでインド音楽を聴きに行った。いつものように至福の時を過ごすのだが、終了後、フラフラになって宿に戻るやなんだか変な不安にかられた。果たしてここは本当に俺のベッドなのか。目が覚めたら道の上で寝転んでいるのではないだろうか。そもそもこの体は俺のものなのか。もちろん翌日目が覚めた時、杞憂であるのを知るのだが、本格的に出るときが来たようだ。

 明日、ネパールに向かおう。チケットを買いに行った。300ルピーなので1,000円に満たない。これで朝食と宿がつく。

(〜1/6)

               
                   (ダシャーシュワメード・ロード)                             (ヴィシュヌレストハウスの俺)
          




<ネパール>

1月7日〜1月19日



【ネパールへ】

 長かったバラナシ生活も本日おさらば。まだ、日が出きらないうちに起きて、霧の中、リクシャーを走らせバスの集合場所へ。日本人が6人ほどいた。8時半に出発。結構なボロ・バスでガタガタ道が体にひびく。インドの風景ともお別れになるので、ずっと外を見ていた。が、変化のない景色で退屈なロードが続く。こんなのが夕暮れまで続き、ようやくインド国境の街に着く。国境と言えどただの村の道に机が一つ置かれているだけ。何事もなくパスポートに出国スタンプを押してもらい、ネパールまで歩いて行く。辺りは完全に暗くなっており、ロウソク一本でビザの申請を書いて、15ドルを払ってビザを取得。ネパールに入国する。宿はネパール側の村でバスチケットに含まれている安宿に泊まる。日本人の4人組と部屋をシェアーする。バックパッカーでないきちんとした大人のグループだ。一緒に夕食に行く。俺は焼きそばとモモ(チベット餃子)。インドよりは中華に近づいた感じの料理だ。美味い。部屋には蚊が大量に発生していた。たまたまバラナシでもらった日本製の蚊取り線香を焚くと、面白いくらいに蚊がバタバタと落ちていった。

 翌朝は7時にバスの運転手が起こしに来た。8時過ぎに出発。ネパール側の景色を見る。今のところインドとは変わり映えしない。程なくして昼食の時間。チキンターリーを食べたが、味がマイルドになってた。その後、上り坂になり、バスのスピードがぐんと落ちる。突然、「パン!」と大きな音がしたかと思うと、バスのタイヤがパンクしたと。一旦降りて、修理するのを待つ。20分ほどで簡単に直り、出発。結局、目的地のポカラに着いたのは夜の6時。辺りは暗くなっていた。バスを降りた瞬間、宿の客引きがいっせいに集まってくる。10人以上の客引きが俺一人を取り囲んでいる。どこも変わらん気がしたので客引きの誠意で決めることにした。結局決め手は、むやみにディスカウントしないことと、ドミトリーがいいというと、他の宿を勧める正直さに負けた。安いだけでなく、やはり正直なのがよい。部屋はシングルで90ルピー(約20円)。宿のテラスには日本人が3人ばかりおり、俺も話しに加わった。その後、皆で一緒に飯を食いに行った。ロキシーという雑穀で作った焼酎に、モモの定食。ここはインドでないという実感が湧いてきた。
(1/7〜8)


【ポカラ】

 ポカラはヒマラヤのふもとののどかな村だ。昔はただの辺鄙な農村だったのが、気候がよくヒマラヤが良く見えるということで、観光開発され、今はカトマンズに並ぶネパールの観光地になっている。それだけに外国人の姿をよく見かけ、お土産屋はもちろん、食べるところも和洋中と何でもそろっている。

 朝は8時に起きて近くのジャーマンベーカリーでクロワッサンとミルクティーにした。ものすごく洗練された味で先進国のそれと何ら変わりない。クロワッサン2つにミルクティーで100円を切るので質と比べるとものすごく安い。
 
 昨日は着いたのが遅かったのでよく見えなかったが、太陽が昇るにつれて霧も晴れ、山がくっきりと見える。素晴らしい。昼は「アニール・モモ」という日本食の食堂に行く。中は狭く、畳のようなものが敷いてある。日本の漫画がどっさりある。カツ丼を注文。出てきたのはちゃんとした豚肉のカツ丼。甘辛い醤油ベースのだしに、卵の半熟さ加減など全くの合格点。インドの偽日本食とは比べ物にならない。しかし、米だけはちょっと違っていた。でもトータルでは合格だ。

 暗くなるまで、外で山を見ながらボーっとする。宿に帰ると日本人6人でチベット鍋を食べに行った。美味かった。なんだか旅の終わりが近づいているのを実感する。今日は、日本人の女性とツインをシェアーする。結構タイプの可愛い年上の女性で、よからぬことを期待したが、電気を消すとほとんど話もせずに就寝。翌朝は俺が起きるころにカトマンズに向かっていった。

          
                 (ポカラ)                         (宿でボーっとする)

                
           (ポカラ、ダムサイドの釣り橋)                 (ポカラ全体を見渡す)

 
次の日も同じように、朝、日記を書きながらジャーマンベーカリーで朝食。昼は漫画を読みながらアニールモモ。そして暗くなるまで山を見て、夜は宿の日本人と美味いものを食いに行く。
 
 早く日本に帰りたくなってきた。旅が飽きてきたと言うのか。刺激が全くなくなってきた。ポカラにいると余計にそう感じる。コロラドのホームステイに始まり、ニューヨークでは貧乏ジャズ三昧、西ヨーロッパでは自転車とヒッチのキャンプ生活、東欧では愉快な仲間との触れ合いに未知の世界の一人歩き、中東では楽しいバックパッカー暮らし、仲間達とのピラミッド登頂、乗合バスでの移動、おせっかいな現地人との触れ合い、などなど、あの頃を懐かしんでいる。今は何の拘束もなく、安くて美味い物を食べ、会話にも困らず、日本の本を読み、無為にだらだらと過ごす。もう旅のテンションはあがらないのだろうか。

 大変なことに気がついた。日記が1冊なくなっているのだ。確かにバラナシを出たときはあったのだが。バスの中でも出した記憶があるのであったはずだ。おそらく、ポカラに着いてバスの中に置き忘れ、客引きにもみくちゃにされていて気がつかなかったのだろう。現場をもう一度見に行き、バスの係の人にも尋ねてみたがやはりない。なくなったのはレバノンからイランまでの約30日。それで済んだのは不幸中の幸いと言えようが、悔しい思いだ。完全にテンションが下がってしまった。

 サランコットの丘にでも登ってみる。ポカラの北側にある小高い丘で、日帰りでショートトレッキングを楽しめる。ヒマラヤも近くに見える。バスに乗ってふもとまで行き、そこからひたすら歩き続ける。サランコットは丘とは言うものの、人が住んでいるれっきとした集落だ。段々畑で農業を営んでいるようだ。しかし、会う子ども達は観光客慣れしているのか、金や食べ物をすぐにねだりに来る。何となく興ざめな気分になる。しかし、サランコットはそこから見えるヒマラヤもさることながら、上から見る村の眺めも素晴らしかった。

                
                    (バスでサランコットに向かう)                            (サランコットの村を上から眺める)

        
                                               (ヒマラヤの全景)

 アニールモモでは「課長島耕作」にはまった。とりあえずこれを全巻読むまではポカラを出ることができない。4日ほど通って読み終えた。
 
 アグラであった、ドラッグにはまっている青年に宿で再会した。相変わらずで、トレッキング中にガイドから「草」を山ほどもらったようで、暇さえあれば巻くか吸うかだった。俺も少し分けてもらいテクノを聴きながらキメた。2日ほどそんなことをしていた。出るときが来たようだ。
(1/9〜15)


【カトマンズ】

 無事に「課長島耕作」も読み終わったのでポカラを出ることにした。朝の7時にバスが来た。昨日は酒と草をやっていたのでちょっと気分がすぐれない。朝食タイムもチャイだけにした。カトマンズには意外と早く、昼の2時には着いた。バスでは隣に日本人の男性が座っていたので、その人と宿をシェアーすることにした。しかし、その男性は口数が少ない。大人しいのではなく、なんか斜に構えたような感じであまり楽しくはない。カトマンズではビーフステーキが食べられると聞いていたので、その人と一緒に食いに行った。しかし料理が運ばれるを待っている間も無言でガイドを読んでいた。

 ステーキを食った後、宿に併設されている代理店でバンコクまでのチケットを買った。最初に思っていたのは、ここからチベットを目指す方向。しかし、今の季節はネパール‐チベットの国境が開いていないと言うことで断念。もう1つ思っていたのは、ここから再びインドに入りカルカッタからバンコクに飛ぶという方向。しかし、今のテンションでは再びインドに行く気力がない。従って、バンコクにいっきに飛ぶ。70ドルと安かった。チケットを買うとなんだか元気が出てきた。

 カトマンズでも相変わらずの生活だ。ぶらぶらと街を散策しては日本食を食べる。味はポカラのよりも美味かった。3日目に入った朝、日本にいる夢を見た。完全に帰国モードだ。その日は村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を読む。中学生で読んだときはなんだか意味不明だったが、今は分かる。面白かった。そして宿に帰って久々にクラリネットを吹く。天気が良かったので音も良かった。

 翌日、起きてあくびをすると、あごが外れた。なかなか口が塞がらなくて少し焦った。右が直っても左がなかなか閉じてくれない。自分で軽くアッパーカットをして元に戻った。しばらくして、またあくびしてあごが外れた。同じようにどついて治した。
 
 スワヤンブナートに行った。そこは小高い丘の上に仏塔ストゥーパがあり、そこからカトマンズを一望できるとのこと。最近のデレデレした生活がたたってか、運動不足で登るのがきつかった。上では少しひたってみた。

 明日ネパールを脱出する。ネパールは楽な国だった。物価も安く、食べ物も豊富で美味い。人も悪くない。しかし、俺はなんかあまり好きにはなれなかった。それは単に俺の旅のテンションが下がっているからだけかもしれないが、「オレハタビヲシテイル」という気にさせてくれないのだ。もちろん旅をしなかったのは他ならぬ俺なのだが。ともあれ明日出る。
(1/16〜19)

                            
                         (カトマンズの寺)                                   (ダルバール広場)

                

                         (お土産屋)                                         (お土産屋)
 
                  
                       (カトマンズ郊外の村)                              (スワヤンブナートのストゥーパ)






<タイ>

1月20日〜1月22日


【出発】

 カトマンズからタクシーで空港に行く。久々の空港だ。イスタンブール‐エジプト以来だ。飛行機に搭乗する。機内では久々にジャズが聴けた。内省的なピアノトリオだったが、心に染み渡ってのけぞった。

 バンコクに到着。俺にとっては2度目なのだが、最初はインドに行くためにトランジットしただけ。泊まったのも飛行機パックの中級ホテル。飛行機を出てイミグレで並んでいると、日本人の男性から声をかけられた。初めてなので一緒に連れて行ってくれと。一緒にバスでカオサン通りまで行く。空港を出た瞬間驚いたのだが、ここは本当に南の国だ。毛穴がいっきに開いて汗が吹き出る。インドやネパールは南国とはいえ冬は寒い。しかし、タイは常夏で一月なのに皆半そでなのだ。しかも女性がミニスカートをはいている。中東からインド、ネパールではほとんど女性の「肌」を見ることがなかったのが、ここに来て悩殺。

 カオサンに到着。なんとも賑やかな雰囲気。空気が湿っていて気持ちがいい。とりあえず、同行者と一緒に屋台の飯でビール。美味い。生き返ったようだ。ここに来て、テンションが上がる。



【バンコク】

 夜はなぜか興奮して一睡もできなかった。6時頃、外に出る。もうバンコクの時間は始まっている。コンビニで肉まんを買って食べる。今日は、昨日の同行者が一人でアユタヤに行くので、俺はドミトリーに移る。ドミトリーは久しぶり。イスタンブール、カイロなどを思い出す。

 日が昇り、大都会のバンコクを歩く。あの暑い時期のニューヨークを思い出す。半年以上前のことだ。ジュースを飲みながら、歩いて人体博物館に行ってみる。奇形児のコーナーが凄かった。

 旅行代理店に行き、大阪までの「かたみち切符」を買う。明後日の便でフィリピンを経由して関西新空港。最初に出た場所に戻るのだ。

 バンコク最後の日。ドミトリーの住人と話す。愉快な奴もいて、バラナシの話など会話に花を咲かせる。楽しい。クラリネットを持って旅してきた話をすると、2段ベッドの下の女の子から吹くよう促される。部屋の中でディズニーの「Someday My Prince will Come」をさらっと吹いてみる。1コーラスだけだが、拍手をもらう。雰囲気が良かったためか、部屋の住人からは真顔でジーンときたと言われる。

 
 最後の夜だからと言って特別なことはしなかった。屋台でぶっ掛け飯を食って、ビールを飲んだ。 宿でタイ式のマッサージをやってもらう。そして寝る前に、ドミの住人とキン肉マンの話で盛り上がる。ハンガリーはテレサの宿を思い出す。

                           
                                                (バンコクの屋台)





<フィリピン>

1月23日


【空港で一泊】

 最後の夜は暑さと興奮のため一睡もできなかった。5時に起きてシャワーを浴び、パッキングを済ませていち早くチェックアウトする。送迎バスが来て空港に向かう。だが空港に着いたのはいいが、飛行機の出発が2時間遅れているのだと。バーガーキングのチケットをもらう。バーガーキングは実にオランダ以来。しかも自転車を盗まれた日に食べたのだった。食べながら思い出す。最後の最後にまたもフィードバックする。

 飛行機が出る。ここからマニラとセブを経由して大阪に帰る。飛行機はガラガラ。機内食は不味い。3時間ほどでマニラに到着。明朝6時のフライトまで待たないといけない。あと10時間近くあるが、マニラのダウンタウンに行くには中途半端。朝が早いし、空港で一泊することにした。ちょうど同じ境遇の日本人があと2人。1人は俺より一日遅れて日本を出て、東南アジアをくまなく周っていたのだとか。俺と同じく8ヶ月間日本に帰っていない。歳も同じ。

 彼らともキン肉マンの話をする。

                
                     (マニラの空港にて)                                        (セブ空港)





<帰国>

1月24日


 眠ったのか眠っていないのか分からないまま、時計が朝の4時をさし、チェックイン体勢に入る。6時に離陸。途中、セブに寄る。機内では機内食も食べずにずっと寝ていた。日本時間1時に関西新空港に到着。外は寒そう。シリアで買ったジャンバーとインドで買ったセーターを着る。マニラで一緒した2人と、最後の「帰国」スタンプを押してもらい、荷物検査の後、ついに日本上陸。3人とも笑顔が絶えない。最後しか会っていないのに、既知の友人のように固い握手をしてそれぞれ別れる。

                          
                                    (関西新空港にて)

 関空から天王寺まで電車で1,030円。物価の高さにめまいがする。車内で見た光景。あるフィリピン人が間違えて多く切符代を払っていたのを、車掌が気がついてわざわざ席まで払い戻しに来てくれた。当たり前の話だが、これまで、ぼられてばかりだったので、にわかには信じられなかった。

 天王寺に到着。乗り慣れた近鉄南大阪線に乗る。8ヶ月ぶりに見る車窓からの風景は何も変わっていない。喜志駅に到着し、もとの道を戻る。我が家に到着。何も変わっていない。さりげなく家に入ると兄貴しかいない。相変わらず無口な男だ。しばらくしてオカンが帰ってくる。オカンは俺が帰ってくることを知らない。玄関の俺の靴を見たのか、歓声を上げて階段を上ってくる。無事の帰国で歓喜の声。しばらくして親父も帰ってくる。オカンに言われ、ちょっと隠れる。親父が2階に上がり腰をおろしたところ、おもむろに部屋に入っていく。

「なんや、相撲始まってるやん」

と、言いながら。親父がビックリする。年なのかちょっと涙ぐんでいた。ともあれ、

8ヶ月間世界一周、無事達成。






おわりに

 以上が1997年5月から98年1月にかけての約8ヶ月間の旅の概略である。この旅行記は旅中につけていた日記と写真、そして記憶に頼って書き起こしたものである。あれから7年の月日が流れた今、なるべく、当時に感じていた、思っていたことに忠実に再現してみたつもりである。今考えると、ずい分、無謀なこと、恥ずかしいこと、青草いことをしたり考えたりしているものだ。

 さて、この旅行記のエピローグにあたって、なぜこのような旅を敢行したのか、その動機を最後に述べることで筆をおきたいと思う。

 この旅に出る一年前の1996年は大学4年生でしっかりと就職活動中であった。バブル経済が崩壊して、就職市場は買い手市場へと逆転して久しいため、例に漏れず、我々の就職活動もかなり厳しいものがあった。しかし、私は持ち前のこだわりとバイタリティで訪問する会社を数社に絞り、中でも一社、大きな会社ではないが、当時の私の追い求めるものに合致していたある企業を重点的に活動対象としていた。状況は芳しく、短期間のうちにいっきに最終面接まで持ち込んだ。しかし、はっきりとした理由はわからないまま、その会社からけられたのである。もちろん再チャレンジを打診したものの、良い返事は得られなかった。

 失意のまま、ある旅を経験することになった。それは当時、所属していた市民オーケストラでのヨーロッパ演奏旅行である。縁があり、その時、世界的ジャズピアニストである山下洋輔氏と共演させてもらった。チェコのプラハだった。夜のパーティは現地の人も交えて賑やかに行われた。その中に1人、異彩を放つある人物が混じっていた。それは、かのスメタナ弦楽四重奏団のヴァイオリニスト、ルボミール・コステツキ氏であった。スメタナ弦楽四重奏団というと、私はモーツアルトの弦楽五重奏曲の録音を何度も何度もレコードなら擦り切れるほどに聴いており、私の最も好きなアンサンブルの一つであった。私は、その時、コステツキ氏につたない英語で、

「あなたの演奏は何年も前から聴いています。ヨゼフ・スークが参加したモーツアルトのクインテットは私の愛してやまないレコードです。」

と言った。すると、ものすごく喜んでくれて、

「ありがとうございます。私はもう引退していますが、そのレコードは私も気に入っています。スークとは今でも時々会っています。」

と返答をしてくれた。その時に、コステツキ氏の英語を通訳してくれたのが、山下洋輔氏である。大感激の場が去り、山下氏が私に言ってくれた言葉がこうである。
 
「石田君、旅をしているといろいろと信じられない素敵な経験をするものだよ。」

と。その瞬間、就職活動を中断することを考えた。
 
 さらに、帰国後の同時期のことである。日本の書店である本を手にとった。それは10代の私に最も影響を与えた予備校講師、牧野剛氏の著書であり、「浪人せずして何が人生か」とかいうタイトルだったと思う。パラパラと読むと、ある卒業生のエピソードが紹介されてあった。その卒業生は牧野氏の教え子であるのだが、大学卒業後、一年間インドを旅するという手紙を受け取ったということ。それに対し牧野氏が著書の中でこう書いている。

「大学卒業後にインドを放浪することの社会的な是非を問うつもりはないが、確実に言えることは、今後どんなことがあろうと彼の人生がそれによって「面白い」ものになることは間違いないということだ。」

と。失意の中でもあったし、就職活動について疑問をもっていた時期に、こういうフレーズに出会うとは運命的なものを感じ、卒業後の旅立ちに大きく背中を押すものになった。それが旅の動機である。

 そして私は旅に出た。牧野氏の言うように、あの時旅に出ていなかったら、今よりも「面白い」人生でなかったかどうかはわからない。「もしあの時」というパラレルワールドを検証することは無意味である。しかし確実にいえることは、あの旅は今の私の人間形成にとって大きな影響を与えているということだ。精神的なレベルについては言うまでもなく、いみじくも今の私の生活を支えている源にもなっているのだ。

 あの旅を敢行する直前、大学の恩師から大学院への進学を勧められた。それは「旅立ちの条件としての進学」という意味にも近かった。私はその勧めに従い、大学院に入学した後、休学してすぐに旅に出た。そして帰国した後は予定通り復学した。そして、そこで、ある講義の中で1人の非常勤講師と出会った。その講師が数年後に、今の会社の私の上司になるである。

 あえて「もしもあの時」論を援用させて頂くが、もしも旅に出ていなかったら大学院にも進学しておらず、講師にも出会わず、今の会社にも入っていない。さかのぼれば、当時の意中の会社に内定していたら、山下洋輔氏に出会わなかったら、コステツキ氏があの場所にいなければ、牧野氏の本を偶然見つけなければ今の私はないのである。全てが「偶然」(≒もしも)の積み重ねにより成立している。裏を返せば、それらはまさしく「必然」なのである。

 「偶然=必然」の導きによって、旅が今の自分に(生活レベルでも)直結しているからと言って、今、これがゴールではもちろんない。会社について言うと、会社及びその業界を取り巻く環境は決して順風ではなく、単なる経済や生活のレベルで見ると、今よりもよい場所は確かにあるかもしれない。しかし、今の会社に入らなければ、出会わなかった出会い、経験しなかった経験など無数にある。それら一つ一つの「偶然=必然」が今後どのように展開するのかは知れない。しかし、その展開、発展のことを考えると、私は非常に「わくわく」してしまうのだ。確実に「面白い」人生を歩んでいるという実感を得るのだ。

 遅まきながら社会人になった今、あの旅については、若い一時期の貴重なエポックメイキングとして、自分自身誇りに思っている。繰り返しになるが、あの旅は私の人生を「面白く」するために見事な演出を行った。それだけは揺ぎ無い「事実」なのである。