8ヶ月間世界一周

1997.5.19 〜 1998.1.24


 

出発

 旅立ちは1997年5月19日。旅の期間を1年以内と見ているが、旅中の予定はほとんど立てておらず、行き当たりばったりとなる。「かたみち切符」での 入国だけに、戻ることはできない。今のところ「不安>期待」。

 大阪の友人が関西空港まで送ってくれる。1人でないぶん、不安はちょっとはやわらぐ。でも、間もなく飛行機が来る。午後4時のフライトで、目的地コロラドに着くのは同日午後5時の予定。時差があるので、一時間で着くことになる

※アメリカ入国には復路チケットの提示が求められるため、最初は往復切符を購入したが、アメリカ入国次第復路切符は破棄している。

 

         (5.19 関西空港にて)





1.アメリカ編

<コロラド>

5月19日〜6月16日

【長い1日】 

 長い1日だった。飛行機の中では、新婚旅行のカップルと話し、独りで旅立っていることに早くも侘しさを感じる。

 ロスを経由し、予定通り、19日5時にコロラドに到着。最初の地は、英語や日本以外での生活に慣れるため、一ヶ月間、コロラドでホームステイをする。この辺に意外な俺の慎重さがでている。

 ホストファミリーは、アメリカの民間非営利団体に斡旋してもらう。事務費を僅か払うだけで、滞在費はなし。ファミリーはボランティアで俺を受け入れてくれる。

 空港に着くと、「WELCOME TO HISATSUGA」と書かれたプラカードを見つける。俺の名前が違っているが、これが、これから一ヶ月間お世話になるファリントン一家だ。夫婦 (スティーブ&ベツィ)と7歳の女の子(ミシェル)、2歳の男の子(ジョナサン)が迎えにきた。 ファミリーの家は、州都デンバーと第2の都市コロラド・スプリングスのちょうど中間の、アルバート郡エリザベスという村だ。

 日本からのお土産(新幹線のおもちゃ、ドラえもん、扇子、等)が思いのほか喜ばれ、ジョナサンに至っては、抱いて寝る始末。かわいい。そして長い1日が終わった。


             (ホストファミリーの家)                              (ホストファミリーと近所の人)

    
           (コロラドの大地)                                  (コロラドカラーは赤)



【小学校訪問】

 ミシェルの小学校を訪問した。ミシェルが同級生や先生に得意げになって俺を紹介する。ドラえもんをもらったことは相当嬉しかったようだ。ちなみに、母親のベツィはドラえもんのことを「オンチキャット」と言っていた(発音上もこう!)。今考えるとなぜそんなところまで知っているの不思議だ。話を戻そう。俺はミシェルのおかげで、小学生たちとすぐにお友達になった。女の子からは「He's mine!」といって取り合いにされる。ここまでモテたのは生まれて初めて。 

 しかし、コロラドは標高1000メートルの地。鬼ごっこをして走り回るとすぐに息が切れる。がきは容赦なく俺を追いかけてくる。しかも集団で。ネットによじ登って休息をとると、先生に怒られる。俺が小学生の時、サッカーネットでハンモックごっこをしていたら、先生から怒られたことを思い出した。どこ行ってもかわらん俺。小学校では、俺も授業を受けた。国語と音楽と図工だ。国語ではみんなの前で本を音読した。単語の読み書きと語彙力は受験戦争を通過してきた俺にとって、ネイティブと言えど、7歳のがきの比ではない。ちょっと得意げ。

 日本語も少し教えた。あるお友達が「私の名前は日本語だとどんな意味?」と聞いてきたからだ。意味なんてないのだが、適当に答える。「モーリー」という女の子に対しては「モーリー」→「森」→「forest」だ!、「ジョー」という男の子に対しては「ジョー」→「場」→「place」だ!。いつの間にか俺の前に行列ができていた。「サム」という男の子に対しては「サム」→「砂無」→「no sand」だ!、おまけに「シャン」という男の子に対しては「シャン」→「ちゃん」→「子連れ狼のちゃん=おとうさん」→「daddy」だ!。シャンは「おやじ」と言われてショックだったようだ。

             (ミシェルの小学校‐fanny faces!)                     (真ん中がミシェル



【ジョナサンのこと】

 ファミリーにはジョナサンという2歳の男の子がいる。歳の割りには大きく、どこに行っても「Big boy」と言われていた。ジョナサンは1日目から俺になついた。言葉のレベルが同じだけに、親近感を感じられたのか(わけないか!)。彼はいつしか俺を「鳥の袋」と呼ぶようになっていた。つまりこうである。ファミリーは俺のことをファーストネームで「HISATSUGU」と呼ぶのだが、これはアメリカ人には言いにくいらしく(日本人でも言いにくいか)、「さーつぐー」と発音される。最初は呼び捨てで口調も強いので怒られているような雰囲気だったがすぐに慣れた。その「さーつぐー」という言葉はジョナサンの2年を歳月経ても聞いたことのない言葉らしく(あたりまえや!)、とりあえず自分の知っている言葉に置き換えようとする。すると、「さーつぐー」→「さーっぐーす」→「さっかぐーす」すなわち「Sach of goose」となり、つまりは「鳥(goose)の袋(sack)」なのだ。

 
 ジョナサンは俺に対してしばしば命令する。一番多いのは「sit down」だ。つまり、座って遊べということだ。あとは、「come」とか「more」とか単語か熟語レベルの命令形が多かった。しかし、一ヶ月の最後の方になると、「play with me」まで言うようになっていた。俺のいたたった一ヶ月間でかなり言葉が上達していたように思う。


       
      (ジョナサン2歳)                      (俺のベッドの上のジョナサン)



 ジョナサンはよくママ(ベツィ)から怒られていた。すぐに悪さをするからだ。悪さをすると「Do you want to go to bed!」と言われるが、当然「No」と答える。この言葉は一瞬はつかえるようで、俺も時々使わしてもらった。しかし、すぐに悪さを再開するので、ママは無理矢理ジョナサンを寝室に連れて行こうとする。すると、決まって「daddy・・・」と言ってパパに助けを求める。お母さんはどこの国でも子どもの敵のようだ。(余談だが、東南アジアで流行っているドラえもんでは、ママがドラえもんの道具でやられると、子ども達は大喜びするそうだ。)

 ジョナサンは赤ちゃんなので、家の中をしばしば全裸で歩き回る。その時驚くべきものを発見したのだが、ジョナサンの「ちんこ」はなんと全ムケだったのでである。綺麗な全ムケである。日本人の70%は「仮性○茎」だと言われているが、ジョナサンは2歳にして、すでに大人の一員となっていたのである。これは帰国してから ある人から聞いた話なのだが、現在、諸外国では男児に対する「割礼」が流行っているそうだ。もちろん文化人類学的なそれではなく、割礼を施すことで、ちん こが立派に育つとともに、肉体自体も立派になり、風邪にもひきにくくなるなどから行っているそうだ。無論、科学的な根拠は乏しいのだろうが、少なくとも、大人になってから無為に悩むことが少なくなることは事実だ。日本人にしても、深刻な数%と、さほど深刻でもないが時々「焼きそばを食う(←意味は想像して下さい。俺の高校ではあの状態のことをこう言ってたのです)」70%の男子は悩みから1つ解放されることは確かだ。そんなジョナサンにちょっとジェラシー。 



【ミシェルのこと】

 ファミリーには長女のミシェルがいる。そばかす顔のお転婆な少女だ。何かのアニメのようだが。ミシェルからはいろんな事を学んだ。俺の英語の先生でもあった。よく発音を正された。ミシェルからすると、俺は二人目の弟のようなもんなんだろう。でも、よく抱きついてきた。小学校で人気者になった俺が家にいることで、友達には自慢していたようだ。 俺が同級生のがきに取り囲まれたら、よくボディガードをやってくれていた。
 
 ミシェルは非常に活発で、ガールスカウトにも積極的。とにかく大人しくしていることが苦手なようだ。四六時中、「play time!」と言って俺を遊び相手にしようとしていた。よくやった遊びが、鬼ごっこやかくれんぼ。時々ファミコン。とても活発で普段はとても良い子なのだが、時としてエキサイトしすぎる面がある。そんな時、一度だけ、ミシェルとのことで問題になったことがある。いつものように「play time」と言って遊びに来たのだが、その日は何があったのか、エキサイトがあまりにエスカレートしすぎて、最後は、唾攻撃を仕掛けてきた。単純に騒ぐだけなら、俺も笑っていられるのだが、唾攻撃は防御しようもなく、これには俺もまいり、ベツィに助けを求めに行った。さすがにベツィも激怒。しばらくして、ミシェルが泣きながら 謝りに来た。お互いにいい勉強をした。 これはある意味、ミシェルは俺のことを単なるゲストとみなさなくなったことなのだ。これは俺にとっても嬉しいことではないか。


       
     (ミシェルとジョナサン)                              (ミシェル(右)と友達)

 余談ながら、ベツィが言ってたことなのだが、アメリカでは子どもがエキサイトし過ぎると、それを「薬」で鎮めてしまうところがあるそうだ。子どもが情緒を失う状況は、ADHDと言って立派な「病気」とみなされるそうだ。それは、日本では一昔前、「ジャイアン‐のび太症候群」という言葉で言い表されていた。学級崩壊やキレる子どもの増加はそのADHDによるものらしい。原因は諸説あるが、一つとして「食べ物」があるとも考えられている。科学的な因果関係は無学なためよく説明できないが、実感論としてエタノール漬けのコンビニ弁当やインスタント食品を食べると、イライラが積もってくると感じることがある。確かに、アメリカの農作物は農薬まみれだったり遺伝子組替えだったりとひどい話が流布している。そのようなものを最前線で日常的に食べている子ども達は間違いなくおかしくなるだろう。しかし、ここにはある意味合理的なシステムがあるのかもしれない。「薬まみれの食べ物→ADHD→薬で治す」つまり「薬が原因なら薬で治す」という原因と結果の一貫性が見られるのだ。この背景には、極度な効率至上主義と合理主義、高生産性、そしてそれらに裏打ちされる世界一の経済力がある。「何かおかしいのでは論」をここで論ずるつもりはない。「お袋の握り飯とたくあんで心も体も健康体」では「美味しんぼ」になるが、日本のこの不況下に「スローフード」や「地産地消」という言葉も大分定着してきたようだ。好ましいことだと思う。

 ミシェルの話からそれてしまったが、当のミシェルに薬は?とんでもない!彼女は「言えばわかる」という今時珍しい子どもだし、それを育てるベツィがいるのだから。

【ベツィのこと】

 この滞在中最もお世話になったのが、他ならぬベツィだ。一番よく話しをした。俺を受け入れに対して最も積極的だったのもベツィだそうだ。ベツィは先の「暴れる子どもへの薬」に対しては、完全な反対派。問題に対しては即決しようとせず、長くゆっくり根本から対応しようとする。俺の受け入れに積極的だったこともあり、東洋に対して興味を持っているようで、ある意味考え方も東洋的なところがあった。

 子ども達に対しては、決して甘やかすことなく、時として厳しく、また、時としてやさしいお母さんだった。ベツィとは一生の付き合いになることだろう。



   
  (怖い顔のベツィとジョナサン)



【スティーブのこと】
 さて、これまで登場回数の少なかった重要人物にミシェルとジョナサンの父であり、ベツィの夫であるスティーブがいる。口ひげを生やし、お腹がでっぷりとでた、いかにもアメリカ西部のおじさん風だ。デンバー大学大学院の修士課程を経て、仕事は建設関係のコンサルタントをしていた(よく考えたら同業やん)。しかし、会社の上役とはうまくいっていないようで、しばしばベツィに 愚痴をこぼしていた。家の中では基本的に物静かで、よく、ジョナサンに遊ばれていた。

 こんなことがあった。いつも食事をいただいているので、一回くらいは日本の食事を出してあげたいと思い、俺でもできる大阪風お好み焼きを作ることになった。ファミリーには「Japanese Pizza」と説明した。材料は、小麦粉、卵、ベーコン、海老、チーズ。無論、山芋もかつおも青海苔もない。ソースはウスターソースにケチャップ、チリソース、マヨネーズなどごちゃ混ぜにした得体のしれないもの。料をボール入れ、水を流し、ぐちゃぐちゃに混ぜ、油を引いたフライパンにし入れる。その時点で、ベツィは「怪しさ」を感じたのか、口では面白いと言いながらも、顔はひきつっていた。できた。見た目は悪いが、味は一応お好み焼きしている。しかし、ジョナサンは一口食べて泣き出し、ミシェルはその場から消えた。ベツィはひたすらおしゃべりしてごまかしている。その中で、スティーブだけが「I like it」と言って食べてくれていた。俺が二枚目に手をつけると、スティーブもおかわりをした。しかし、俺はわかっている。だって、目は充血していたし、一枚食べるのにペプシを6缶も空けてたのだよ。ありがとうスティーブ。


 食べ物についてもう少し語るが、ミシェルの好物はスパゲッティとパスタ。嫌いなものは「Japanese」となった。はっきりそう言われた。でも中には好きな「Japanese」もあり、それは「酢豚」だそうだ。しかし、好きなのは酢豚の中のパイナップル(大量に入れてある)で、そもそも酢豚は中華だよ。


       
 (スティーヴ、ジョナサン、俺)

【その他の家族のこと】

 ファリントン家は他にも家族がいる。2匹の犬と1匹の猫が。名前は小さな犬がプロッフィー、大きな犬がハッツイン、猫がバースデイ。プロッフィーはむくむくのぬいぐるみのような小型犬で、ハッツインは真っ白い大型犬。ジョナサンよりも大きい。この2匹は俺にとてもよくなついた。プロッフィーは毎朝決まった時間にドアをノックし起こしてくれる。そのすぐ後に、ジョナサンが起こしに来る。ハッツインはマッサージが大好きで、背中や顔をマッサージしてやるととても気持ちよさそうな顔をして、終わると必ずハグとキスをしてくれる。そして、プロッフィーとハッツインは大の仲良し。

 バースデイは・・・俺の姿を見ると必ず逃げやがる。猫ってこれだからなぁ。でも可愛いんだよな。

   
        (プロッフィー)                      (ハッツインとジョナサン)


【キャンプ】

 ファミリーとは一ヶ月の間に何度も旅行に出かけた。ちょうど、学校が夏休みだからだ。その中で、印象的だったのがキャンプだ。コロラドのキャンプをスケールがでかく、 山全部がキャンプ場なんて世界だ。野生の動物が周りにうようよいる。ここで、ある体験をした。生まれて初めて「真の暗闇」を味わったのだ。キャンプ場は山の中なので、もちろん電灯もなければ、夜中に火を焚くこともできない。大きなテントの中で、一人ひとり寝袋に包まりながら、皆で寝るのだが、俺はふとしたことで、夜中に目が覚めてしまった。すると、何も見えないのである。テントの中なので、月や星の光も届かず、目に残っていた残像まで消えている状態。明日になったら目が見えるだろうかなど、極度に不安になり、そのまま朝までほとんど寝付くことができなかった。

 
 普段何気ない「光」がこれだけ恋しくなったことは後にも先にもない。


    
            (キャンプ場近くの湖)                       (キャンプ場でマシュマロを焼く)


                           (神の庭-コロラドスプリングス)



【牧場】

 コロラドはロッキー山脈のふもとの州。確か、バスケかなんかのプロスポーツチームに「コロラド・ロッキーズ」というのがあった。昔の西部劇の舞台となっていた地域である。それだけに、広大な大地が続き、土と緑と水に覆われ、サボテンが点在するような土地だ。ちょっと郊外に行くとネイティブ・アメリカンの伝統的な生活様式に出会うこともある。今回、コロラドを希望したのは、そういった昔ながらのリアル・アメリカンや広大な大自然に触れたかったからだ。

 そんな思いもあったので、ファミリーにはよく友人の牧場に連れて行ってもらったものだ。そこでは、生まれて初めて馬というものに乗った。馬は実に見事なもので、手綱を左に引けば左に回り、右に引けば右に回り、手前に引けば止まる。軽くわき腹を蹴れば歩き、連続して強く蹴れば走る。う〜ん。かっこいい。こんな可愛くて賢い動物を生でかぶりつく日本人はなんて野蛮なんだろう、とその時だけは思った。

ここでジミーについて語りたい。ジミーはファミリーの友人宅の息子で歳は15歳。乗馬の名手であり、牧場の中を我が物に走り回り、常に動物と触れ合っている。しかし非常に寡黙な男の子で、牧場で働いている時も、食事の時もほとんど話さない。周囲のアメリカ人はおしゃべりばかりな中、ひたすら黙りこくっているのである。最初は、嫌われているのかと思ったが、どうやらいつもその調子らしい。


 だが、まだ15歳なのに牧場を取り仕切り、病気の牛には薬を胃の中につっこんだり、迷子の仔牛を馬に乗って探し見事に引き連れてきたりなど、非常に頼もしくカッコよく見えたものだ。その牧場を後にしてから、俺はジミーに手紙を書いた。いろいろ教えてくれてありがとう、君とはもっと話したかったなどという内容だったと思う。


 俺がコロラドを去る一週間ほど前、エリザベス村では初夏を祝うパレードがあった。ミシェルもガールスカウトの一員としてパレードに加わる。その中で、馬に乗ってカウボーイキャップを被ってジミーが現れたのた。俺の手紙は読んだと思う。ジミーは馬に跨り、ストリートにお菓子をばら撒いていた。ジミーがだんだん近づいてくる。俺に気づいて欲しいと思った。すると、ジミーは満面の笑顔で俺の方を向き、お菓子を俺に向かって2度投げてくれたのだ。初めて見る最高の笑顔だった。そして俺たちはそこで短くも最高の言葉を交わしたのだった。


     
      (牧場にてジミーと俺)                    (馬に乗る俺)



【別れの日】

 別れの日は必ずやってくる。なぜなら出会いがあるからだ。次の目的地はニューヨーク。ベツィをはじめ、ファミリーは俺が独りで行くことを物凄く心配してくれていた。明日、この家を出る。家の中にはいつもと違う風が流れていた。ガールスカウトから戻ってきたミシェルが「私がいなくて寂しかった?」をおどけてくる。本当に寂しかった。ミシェルもいつも以上に俺に甘えてくる。ジョナサンと犬たちはいつもと同じだったが。最後の晩餐は、ポークとライスだった。ライスは俺の好物。みんなで感謝と祈りを捧げて食事を始める。ベツィは口数の少ない俺を気遣って、しきりに「具合が悪いの?」と聞いてくる。「大丈夫」とは答えるものの、目は完全に赤くなり、熱いものが流れるのをこらえるのに必至だった。


 出発は明朝、夜が明ける頃で、ベツィがコロラド・スプリングスの空港まで送ってくれることになっていた。寝てしまえば、ミシェルやジョナサンと会うことはない。 でもジョナサンと犬たちはいつもと同じ調子。なのに明日から俺はこの家にいない。起こしに来ても俺はいないのだ。お休みの時間になり、まず、ミシェルが「Thank you for everything」と言って部屋に入って行った。スティーブとベツィがこの一ヶ月間のことで俺にお礼を言ってくれた。お礼を言うのはこちらだ。しかし、なぜかその時は言葉が出なかった。2人にお休みを言い、俺も自分の部屋に戻った。ようやく熱いものを思いっきり流すことができた。


 朝が来た。俺は起こされずに起きる。ベツィも起きて出発の準備をしていた。スティーブも起きていて、目を赤くしながら「I'll miss you」と言い、握手を求めてきた。熱いコーヒーを飲む。いつもの車で出発する。辺りはまだ暗い。何を話したか覚えていないが、いろいろ話した。空港に着いた頃には、明るくなっていた。2人で空港に入り、俺のフライトを確認する。フライトまで2時間弱。ベツィも帰ったら子どもたちの世話をしなければならない。最後にベツィが言う。「日本にはハグ(抱き合う)の習慣がないのは知っているわ。でも、今は私たちの習慣に合わせて欲しい。」と。笑顔でハグをした。そしてすぐにベツィは去って行った。見えなくなる寸前の角でベツィは一瞬振り返り手を振った。一人になり、また熱いものが流れてきた。

 

 さあ、これからニューヨークだ!!





<ニューヨーク>

6月16日〜7月3日



【ニューヨーク上陸】

 コロラド・スプリングから4時間ほどのフライトで、ニュージャージー州のニューアーク空港に到着。空港を出る前にトイレで身支度。パスポート、現金、チェックなどを腹巻に仕舞い込み、いざ出陣。マンハッタンには地下鉄で行くことができる。初めて見る黒人に行き方を尋ねる。英語の発音がコロラドとは全く違うことに気づいた。異国に来たようだ。パスという列車に乗り、地下鉄に接続。車内には、白人、黒人、南米系、東洋系、インド系など本当にいろいろな人種がひしめき、何の不自然さもなく、共存している。これまでの俺の世界では見たことない光景だ。


 ニューヨークの初日は、日本の知人に紹介してもらった日本人のお宅にお邪魔する。マンハッタンの隣のクイーンズに行く。快く迎えていただき、その日は久々に日本食を食べる。しばらくこのお宅に泊まり、マンハッタンやクイーンズをぶらぶら見て歩く。
(6/16〜19)



【一人旅再開】

 日本の知人宅を出る。楽で居心地は悪くないのだが、どうにも退屈になったので、大きな荷物を預かってもらい、一人、マンハッタンのユースホステルの移動することにした。決して清潔とはいえない一晩15ドルのドミトリーにチェックインする。部屋には、イタリア人やイスラエル人がいた。他愛のない話をする。宿を出て、夜になるまでひたすら歩き続ける。
(6/20)


     
     (セントラルパークでお洗濯)                   (ロックフェラーセンター)



【風呂の王様】

 翌日は、別のユースホステルに泊まるが、部屋は暗くじめじめしてあまり快適ではなかった。部屋を出て、とにかくひたすら歩きまわり、ストリートパフォーマンスなどを楽しむ。歩きすぎると、のどが渇くのは致し方なしだが、今は、一ドルでも節約している。


 部屋に戻ると、一人のイスラエル人がいた。シャワーを浴びたかったので、シャワールームの前にいる彼の前を横切るとき「シャワーを浴びていいか?」と一応声をかけた。「Yes」と普通に素通りできるものと思っていたのが、なぜか「この部屋は俺の部屋ではない。お前はこの宿にお金を払っている。なぜ俺にそんなことを聞くのだ?お前のことを今からking of bath(風呂の王様)と呼ばせてもらう」と訳のわからないことをぬかしてきた。なんだか馬鹿にした態度だ。日本では同室人に挨拶代わりに一応声をかけるのがエチケットだろうが、欧米人は「許可を仰いでいる」と言葉どおりに受け取るものなのか。言葉にオブラートを包み、その場のシチュエーションによって相手に対し言葉の解釈を強いる日本語に対し、発した言葉がそのままの意味で通る英語とでは、後者の方が分かりやすいことは事実だが、日本人には相容れない部分もある。しかし、ここで言語観や文化の違いを痛感した。これからは日式ではいけない。ここはアメリカなのだ。


 それにしてもこのイスラエル人。次に会ったときも「やあ、風呂の王様」などと馬鹿にしぬかしやがった。嫌な奴はどこにでもいるものだ。なんとなく、この宿を出たくなったが、3日分の宿代を払っていたので出られない。
(6/21〜23)



【ヴィレッジ・ヴァンガード】

 昼間は相変わらず無目的に歩き回るだけ。ニューヨークは街全体がまさに博物館だ。アート、ダンス、ジャズなどの催し物がいたるところで繰り広げられている。どれもレベルが高い。それだけにこの街で生きていくのは大変なんだろう。


 今日はついに本場のジャズを聴く日だ。ジャズクラブの老舗である「ヴィレッジ・ヴァンガード」に向かう。今日のショウは若き天才ベーシスト、クリスチャン・マグブライドのグループだ。一応、電話で予約を入れておく。ニューヨークスタイルと言うのは、夕食を取ってからゆっくりとジャズを楽しむこと。俺の夕食は2本で1ドルのホットドッグ。9時にヴィレッジヴァンガードの廊下を降りていく。入り口に入ると、予約を確認され、一番前の席に通される。贅沢にバドワイザーを飲みながら待つこと30分。先ずはクリスを除くメンバーが入場。ファンキーなブルースを始める。すると後ろからクリスが登場し、ステージに寝かしてあるベースをおもむろに抱え起こし、力強く弦を引っ張る。2音目が響いた時、俺は完全にノックアウトされ、後は我を忘れて音楽に没頭した。フロントのテナーは知らない奏者だったが、今まで聴いたこともないような「歌」を繰り広げ、あまりの感動に涙が止め処なく溢れ出る。

 ワンステージが終了し、2ndステージのチャージとして、バドワイザーをオーダー。隣に若い黒人が座っており、話しかけられる。ショウの興奮を分かち合う。「かつて、ロリンズが、コルトレーンが、エヴァンズが、ペッパーが、このステージに立って伝説を残していったんだ!!」。意気投合して肩を抱き合う。2ndステージが始まる。1stステージよりリラックスした雰囲気。一番前にいる俺はクリスから「welcome to village vanguard」と直々に握手を求められる。再び演奏が始まり興奮は高まり最高潮に達する。隣の黒人と一緒に。店の従業員から、「settle down 」と鎮められる。最高の2ステージが終わった。よく見ると、周りにはルードナルドソン、ジョン・マクラフリン、ウイントン・マルサリスなどそうそうたる顔ぶれが客として座っている。ここはニューヨークなんだ!!。
(6/24)



     
        (ダンス)                      (路上アート)

       
       (サックスとコンガ)                 (ヴィレッジ・ヴァンガード)



【バードランド】
 今日もジャズクラブに行った。バードランドという、一度つぶれて再開したクラブで、ジャズに集中するというより、レストランのステージにジャズがあるといった感じ。昨日のが最高だっただけに既に嫌な予感。今日のショウはフィル・ウッズのグループ。最高に好きなアルトでCDも何枚も持っている。しかし、嫌な予感は的中。フィルは腰を痛めているいるようでヘロヘロのプレイ。俺は1ステージで出て行く。(6/25)



【サマー・ジャズフェスティバル】

 ニューヨークは贅沢だ。この時期、いろいろな場所でジャズフェスティバルが催され、そのほとんどが「ただ」で聴けることになっている。俺が聴いたのはブライアントパークというマンハッタンの中ほどより南に位置する、中程度の公園でのフェスティバルだ。3日間に渡って様々な演奏が繰り広げられるのだが、メンバーがまたすごい。ジェームス・カーター、ボブ・ブルックマイヤー、レジーナ・カーター、ドン・バイロン、ロイ・ヘインズ、エルビン・ジョーンズなどなど、開いた口が塞がらないめちゃくちゃなメンバー。これもニューヨーク。昼間は若手の演奏を寝転びながら聴き、夜は大御所クラスが登場。最終日に、ロイ・ヘインズとエルビン・ジョーンズのグループが出る。当然、サイドメンもすごい顔ぶれ。ロイヘンのグループにはフロントにドナルド・ハリソンとグレッグ・オズビーが立つ。コルトレーンの曲である「ネイーマ」が沈む夕日に妙にマッチしていた。エルビンのグループのフロントはソニー・フォーチュン。モダンジャズここに極まり。
(6/26〜28)


    
     (レジーナ・カーター・グループ)             (ロイ・ヘインズ・クインテット) 
 
    
         (ドン・バイロン・グループ)             (エルヴィン・ジョーンズ・カルテット)



【スモールズ】

ニューヨークは物価が高い。俺は貧乏なバックパッカーなので、抑えられるところは極力抑えて、旅を楽しむ。「楽しむ」ために何を抑えるか。俺の論理では「衣食住」となる。「衣」は着の身着のまま、洗濯はセントラルパークの噴水で。「食」はレストランなどには入らず、フルーツかホットドッグで済ます。しかし「住」はなかなか抑えることが難しい。何と言っても夜は危険なニューヨーク。野宿する気にはなれないし、ユースホステルも15ドル以上。

 しかし、俺は10ドルで飲み食いと、おまけに大好きなジャズの生演奏付きという素晴らしい宿を見つけてしまった。それは、ヴィレッジ・ヴァンガードの近くにある「smalls」というジャズクラブだ。間違ってはいけない。ここはジャズクラブであって、「宿」ではない。しかし、ここは朝までジャムセッションが繰り広げられており、客は10ドルの入場料を払えば何時まででもいていいし、おまけにおいてあるスナックとソフトドリンクは取り放題。ジャムセッションも決してレベルの低いものではなく、中には物凄い大物が出ていたりもする。こんな天国のような「宿」であるが、さすがに連日となるとマスターに顔を覚えられ、ちょっと嫌味を言われたりした。それでも2週間のニューヨーク滞在中、3日も泊まってしまった。


 ちなみにジャムセッションについて、本場ニューヨークで普通によく演奏される曲は「blues」の他に、「four」「work song」「all the things you are」「what is this things called love」などが多かった。この辺は時代から、日本でいうと軍歌や昭和の流行歌といった感覚なのだろうが、今でも若者達に好まれ演奏されている。たかだか200年しか経っていない国なのに、文化や伝統はこのようにして受け継がれている。そう考えると、日本の文化や伝統はどこへ行ったやら。
(6/29〜7/2)



    
    (スモールズ・ビッグバンド)             (スモールズでのジャムセッション)



【大西順子】 

 大西順子というピアニストがいる。1990年代前半にメジャーデビューして、日本ジャズ会を席巻していた。女流ピアニストというと、とかくビル・エヴァンズを指先だけでなぞって弾くような、お綺麗でお上品なピアノが多い中、エリントンやモンクを思わせるようなゴリッとしたタッチで、ユニークかつ実力派のピアニストとして飛ぶ鳥を落とす勢い の活動ぶりだった。俺もデビューアルバムを聴いて衝撃を受けた一人であったため、この滞在中に生で大西を聴けるとあって、大喜びで予約の電話を入れたのだった。場所は「sweet basil」(2003年現在は閉店している)。客層はなぜか日本人が多い。俺は例のごとくかぶり付きで聴く準備をしていた。演奏が始まった・・・が、面白くないのである。大西が単に気が乗っていなかっただけなのかも知れないが、とにかくデビューアルバムで受けたような衝撃は全く蘇ってこなかったのである。当然、1ステージで出て行った。
(7/1)



       (スウィート・ベイジル)

 今や引退状態の大西に対して何を言うつもりもないが、この頃から壁にぶち当たっていたのかもしれない。その後に出したアルバムも結局デビューアルバムの趣から何ら変わったものでもなく、最後に出したアルバムではエレピを弾くなど、破れかぶれになっていた。やはり発展し続けることは難しいのだ。大西のように熟する前に必要以上にジャーナリズムにはやし立てられ過ぎ、自分では気付いていたであろう、その実力とのギャップに苦しんでいたことは想像に難しくない。そして潔く引退する。大西の頭のよさ故に、そうさせたのかもしれない。とにかくあと何年か後には、再び日本ジャズ会に登場し、スケールアップしたピアノを聴かせてくれることだろう。個人的には現存する大西のピアノは、既に耳をひき付けるものではなくなっているが、復帰した折には必ずライブに行き、スイート・ベイジルのリベンジを果たしたいと思っている。


【サカキバラ】

 1997年7月、神戸市において犯罪史上最も凄惨な事件が起こった。小学校の校門に児童の首を飾り、日本を震撼させた、例の「サカキバラ」事件である。俺のこの事件については、ニューヨークの知人の日本人宅で始めて聞いた。テレビを見てなかったせいか、まったくリアリティがなかった。犯人が捕まり、中学3年生だとわかった時、マンハッタンの紀伊国屋書店では日本人が騒いでいたが、その時も何のこっちゃと思っていた。事件の恐ろしさを理解したのは帰国後のことだった。以上。


【出国】

 2週間のニューヨーク滞在が終わろうとしている。ニューヨークにはまた来たい。だが、今度はもう少しお金を使って贅沢に滞在したい。貧乏旅行はそれなりの楽しさもあるが、ニューヨークではそれは寂しすぎる。ともあれ、かたみち切符の旅も第3国目に入ろうとしており、進む以外になくなってしまっている。次は大西洋をまたがり、ヨーロッパに行く。パキスタン航空を使い、アムステルダムまでの片道チケットが274ドル。ケネディ空港にはもう日本人はいない。不安がまた蘇る。
(7/3)

 

 さあ、次はヨーロッパだ!!